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子どもの遊びH 秋の取り入れの手伝い

 僕達の子どもの頃は遊びか、手伝いかわからないくらいであった。
昔は6月に田植えをして、10月から稲刈りだった。稲を刈り米にするには大変手間のかかることでした。
私の子どもの頃の米の取り入れは次のような手順。
@稲刈り:のこぎり鎌で、1株ごとに4株ザクザクと切り、横へ置く、更に同じことを繰り返し、藁で束ねる。 (刈った稲で束ねることも)1束できる。
Aハサ(ハザとも)掛け:刈り取った稲束を木の杭を田に射し、竹をくくり組む、その竹のハサに稲を掛け天日干しする。   或いはハサ掛けしないことも
B稲こき(脱穀):ハサ掛けして乾燥した稲を集め、脱穀機を使って脱穀し籾(もみ)にする。
C籾の乾燥:庭先にこも(ムシロよりも荒く、藁を使って長く編んだもの)を敷き、其の上にムシロを敷き、籾を載せて天日干しする。 天気の良い日、何日も干す。朝広げ、夕方軒先へのかたづけ をくり返す。籾が乾いたら納屋に保管する。
D籾摺り(臼でするからウススリとも言う):籾摺り機を使い、籾を米(玄米)にする仕事で、大勢の人で行なう。籾摺り機の据付や道具の準備、籾運び、投入、米を測ってカマス(ムシロを縫い合わせた袋)に入れる、米運び、籾殻を捨てる、機械の運転と監視など役目を分担して行なう。終わってからもかたづけに手間がかかり、朝始めて、すべて終わるのは夕方になることも多かった。

収穫時は忙しく、子どもの労力が無くては出来なかった。
特に脱穀、籾の乾燥、籾摺りでは遊びながらよく手伝った。
一例だが。 小さい頃は脱穀で飛んでくる藁束を囲って家を作って隠れたり、
藁束をぶっつけたりした。大きくなるとハサからの稲降ろしや稲運び、
ムシロや脱穀機、籾の運搬など手伝うように変わっていった。
父母が田んぼに出て家にいない時であり、籾の乾燥はおばあさんと子どもが一緒になって運んだり、
コモのかたずけをした。コモは真っ直ぐに巻けず、斜めに巻けるとチンポコといって喜んでいた。
籾がムシロからこぼれたらホウキではき寄せ集め、1粒の米も大事にしていた。
稲こきは人手が要る、子どもの労力を求め、日曜日に合わせて一家でしていた。
脱穀機の作業は危ないから子どもにはさせず、もっぱらハサ掛けから稲を下ろしと運搬作業が多かった。
昼になると青空のもと田んぼで昼食。
リヤカーに載せてきたお櫃(ひつ)に入ったご飯と大根葉の漬物で食べるのだが、特別美味しかった。
僕の家では稲こきを夕方から夜にかけ行なうことも多くあった。
暗い中玄関の門灯を頼りにするのだが、腹が減っても終わるまで稲こきの仕事が続く。
稲こきが終るのはほとんど夜10時を過ぎ、それから夕ご飯を食べた。
百姓の私の家では夕食が夜8時前に食べたことが無く暗くなって食べるものと思っていた。
大きくなって友達の家に行ったら陽が明るいのに夕飯を食べびっくりした。
今、この時代を振り返ってみると、物はなかったが、家族が生きる為に力を合わせ働いた。
特に両親は自分が我慢して子どもに食べ物を与え、家族の先頭になって働いた。
そんな姿を見て育った僕であり、「母ちゃん、(父ちゃん)こづかいを頂戴」とは言えなかった。
というより、言ってはいけない言葉だった。
母が僕に小遣いをくれたのは高校生になってから、それでも、自分から小遣いをくれとは一度も言った覚えがない。
自分の子ども達は大きくなったが、学校では「他人のものを取ってはいけません。
欲しいときにはお母さんに言って買ってもらいなさい」と教えてもらっている。
「小遣いをくれ」と言ってはいけなかった時代、どんなに子どもに説明しても理解ができない。


2006.10.19
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