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思いつくままに書きました。

地蔵盆・・子どもが大人を招待する・そのF

私が生まれた地域は40戸ほどの小さな村。
いつも、揖斐川の増水による洪水(水入りと呼んでいた)の危険にさらされ、
大雨が降ると堤防に上がって水かさを見るのが常となっていました。

それだけに、村にある地蔵さんを大事にしていたのです。
遠い昔から「水よ暴れず、静まってくれ」の思いでしょうか。
その地蔵さんは子どもが守るものと決まっていました。
全国的に地蔵盆は8月24日。この日が来るのを毎年、楽しみに待つ、子どもの祭でした。
8月24日朝、小学1年生から中学3年生までの男子全員(20人〜30人)が
宿(中学3年生の家)に集まりました。
理由は知りませんが、女子は参加できませんでした。宿は子ども達で決めるのですが、
親たちも心得ていて宿を引き受けていました。
準備は全員が鎌とスコップを持ち寄り、地蔵さん周辺の草刈、そして、提灯の櫓道具を
運んできて1m程の穴を掘り立てる。地蔵さんの周りに提灯をつけたり、
前もって作った行燈を飾ったりします。
準備も終わり昼、宿に集まり作ってもらったご飯をみんなで食べました。
自分達が食べる米とおかず代のお金を集めていました。

おかずは上級生が買ってきた昆布やしぐれの佃煮、まぐろの缶詰、吸い物、その家庭で
出来た漬物が多かったのですが、貧しい時代でありご馳走でした。
飲み物はサイダーと決まっていました。
 午後から一段と暑くなる中、お供え物集め、お供え物を載せる縁台集め、ロウソク代集めに
全戸を回ります。上級生から教わってします。

リヤカーを引き「縁台があったら貸してください」と声を出し一軒づつ回り、集めます。
次は「お供え物を下さい」というと大事に保管してあったスイカをもらってきます。
冬瓜(トウガン)をもらうと子ども達は「ケチ」と言っていました。
きゅうりやササギ、サツマイモなどの野菜もあり、リヤカーに載せ、割らかさないように
地蔵さんまで運びます。次ぎに「ロウソク代を下さい」と声をかけるのですが、
いくらか聞かれ「100円です」と答えると「そんなに要らへん」と言いながら100円もらってきます。
私は「ロウソク代」の意味が分からなかったが、地蔵さんの灯明のロウソクを買うお金だったのです。
子どもにすれば、花火、お菓子やジュースが買えるお金が欲しかったのです。
お金の使い道を大人達は充分知っていました。
夕飯を宿で食べ、地蔵さんに集合。上級生が指揮をとって大人や女の子を迎えました。
もらったローソク代ののしも掲示、親に書き忘れを指摘され、急遽お寺さんに書いて
もらうこともありました。

次から次へと大人が浴衣姿で集まり、子どもの顔を見ていました。
子ども達は上級生が買って分けてくれた花火を上げたり、アイスキャンデーを食べたり
嬉しくて夢中でした。当時、流行っていた落下傘花火は上級生が上げる特権で、
「大きくなったら僕もと」みんなが思っていました。
僕はあまりにも打ち上げられた落下傘が欲しくて、上級生のを奪い取ってしまったことが
ありました。 レコード(?)を掛けて盆踊り、夜もふけ10時頃に終了。
子ども達は宿に帰りますが、1年生の頃は疲れて草むらで寝てしまうことも度々ありました。
帰って順番に風呂へ入り、敷いてもらった布団に雑魚寝。
風呂ではチンチンを見せはずかしいことも。本当に嬉しかったことばかりです。

翌朝、ご飯を食べ疲れた体で地蔵さん周辺の掃除や片付け、縁台返しを戸々に回りました。
供え物のスイカは食べたり、野菜は宿でおかずにしてもらったりしました。
午後からは川へ泳ぎに行ったり、花火やジュース、お菓子をかってきて遊ぶのですが、
楽しく上級生は恥ずかしいながら「もう一晩泊めてください」と宿の人にたのみ、
「米があるからな」と引き受けてくれました。
結局2晩、或いは3晩泊まることもありました。
地蔵盆が過ぎると、一気に涼しくなり「夏休みも後数日で終わる2学期」と心がけていたのです。

ずっと続いてきた地蔵盆も泊まることはなくなり、今は大人がするようになりました。
地蔵盆は子どもの祭、振り返ってみますと、子ども達だけで大変な事をしていました。
友達同士でよく喧嘩もしましたが、養われたものは数え切れないものがあります。
子ども達が上下関係からルールを作り守る、上級生が指導する力を持つ、大人たちへの礼儀や
接し方、大人や地域の人々はそっと遠くで見守り、子どもの足らない時があれば援助する、
そんな中で一つひとつ子どもが成長していきました。

(平成18年09月記) inserted by FC2 system