読み易いにしてご覧下さい。

A B C D E
昔の遊び・仕事 そのL 薪割り
どこの家庭でも子どもも一家の労働力。

農繁期は一家総出で、田んぼの仕事をしましたが、日常からも家事をしていました。
僕の仕事は風呂焚き。
風呂焚きといっても焚き木集め、燃料を作り風呂を沸かすのです。
我が家の近辺には柴(しば)になる山はなく、焚き物は稲藁、麦わらなど或いは家を壊した時に出る廃材でした。
家を解体した木材も再度使うことも多くほとんどありません。
また、貧乏で薪を買うこともしませんでした。
というよりもそのような考えはなかったのです。
大雨が出ると何でも流れてくる川へ、薪になる木を拾いに行き、庭の隅に積んで乾燥させました。
燃やしやすい小さな木から拾っていきますので、大きな木が後に残ります。
大きな木は運ぶだけでも大変ですが、弟と二人で集めました。
ノコギリで40〜50cmの長さに切り、ヨキ(斧)で割っていました。
切る木を手で固定しますが、動いてうまく切れず、杭2本をクロスにして地面に打ち込み、縛り、木を固定する台2組を作りました。
固定され切りやすくなったのですが、太い木は子どもにとって難儀なものでした。
切った木をヨキで割るのもまた、難儀なもの。一度や二度で割れないことも多々ありました。
特に節がある木はなかなか割れない。振り下ろしたヨキが中心に命中せず、木っ端や大きなものと不揃いが出来、スカテンをくってヨキの先を折ってしまったことも。
気がつくと父がきちんと直してくれていました。薪割りは木の根っこを上にしなければ、上手く割れません。
数年前、NHK朝ドラ「ほんまもの」で薪割りの場面では方向が正しかったので感心しました。
今振り返ってみますと、一つ間違えば手を失うこともある大変に危ないことをしていました。
でも、父や母が傍で見ていたことはありませんでした。
小学校3〜4年くらいからしていました。
中学1年になり、始めたクラブ活動も3ケ月でやめましたが、風呂焚きがあったからです。
そして、この仕事は社会人になるまで続きました。
叔母さんは「おまえは風呂屋のさん助やな」といつも言っていました。

2006年12月11日記

inserted by FC2 system