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子供のころのこと (八)  ”あそびいろいろ”


昭和二〇年代から三〇年年代の頃のこと。


@ 実用的な遊びいろいろ


 学校から帰ると遊びを兼ねて「茶の実」や「竹の皮」を拾ったり、
「割木作り」や「割木の賃だし」魚を獲るタモの柄にする女竹(おなご竹)切りなど
 その季節に応じていろんな金儲けをしていた。
今考えてみると、このような金儲けの話がどのような経路で子供の自分たちの
 ところへ届いていたのかは解らないが、自分は上級生の指示に従って
動いていただけであった。
(分校は四年生までで、五年生から本校へ
通学するようになってからは帰りが遅くなるために普段は
あまり出来なかったが、半ドンの土曜、日曜日にやっていた)


A 「 茶の実・竹の皮・割木・女竹・ネブチ 」


今でも記憶にあるのは「茶の実」は一升二三円ぐらいで分校で
先生がまとめておられた。
「茶の実」だけは学校で集めていたのは、代金を学校の費用に
していたのかも知れないが詳しいことは覚えがない。

割木は一把二七円で割木の賃だしは距離によって一円五〇銭から三円ぐらいであった。
 竹の皮や女竹切りの値段は記憶にないが、竹の皮を買いに来るおばぁさんの面影は
今でもハッキリと浮かんでくる。
 小柄なキリッとした方で上笠田から乳母車で市之原まで来ておられた。

この地方では最初に出る竹は、「孟宗竹」で通称竹の子と呼んでいる竹である、
 次に「ハチク竹」が出てくるがこの竹の子が食べるのには柔らかく、
アクがなくて一番旨いと思うが出る時期が遅くて世間的には認められていない。
梅雨時前から梅雨時にかけて一番最後に出てくるのが「しま竹」である。
 この竹は食べるのには適していないが、竹の皮や使う用途が一番多い役に立つ竹である。

このしま竹の皮を拾うのである。
落ちた竹の皮が雨に打たれると汚れたりカビが生えたりするため、
 晴れた天気の良い日に竹藪に入って拾うのであるが、
蚊や蜂に刺されたりしながら拾っていた。
 新しい竹の皮がまだ上の方の枝に引っ掛かていると、
その皮を落とそうと思い竹を揺するのであるが、落ちそうでなかなか落ちてこないと
大きく揺すると、竹の先端の方をよく折らかしたものだ。
竹藪の持ち主から学校へ苦情が入り怒られたこともあった。

 現在でも高級な牛肉などはこの竹の皮で包んであるようですが、
このような肉には縁がなくて定かではありません。
「竹のネブチ」も採って(竹の根が土中から外へ出ているもの)
売ったことがあった。

 これはハンドバックなどの持つ手に使ったものと思う。
いずれも僅かなお金だったと思うのですが、自分で使った記憶もないが
親に渡していたような記憶もない。

 また、現金には換えられないが、たにし、魚獲りや山菜採りなど
食べられるものはなんでも採っていた。


B 「 しいたけ 」


ため池で素潜りでの「どうびん」採りや、椎茸も割木を作るために切った
 椎の木などの切り株に良く出ており、採りに行ったものである。

 天然の本当の椎の木に出た椎茸は色も香りもハウス栽培の椎茸とは
別物であり香りも良く歯ごたえももっちりとしており味は別格であった。
一度、食べてみたいと思うのですが・・・!
 最近は山で木を切ることもなく割木を作ることもしなくなり、
望みが叶えられることはないだろうと思う。

 今、山の一定の面積の木を切ることがあるとすれば、それは木を切って直ぐに
ブルトーザーなどで造成し工場か宅地にする時ぐらいであり、
昔のように切り株だけが残ることはないのである。


C 「 まつたけ 」


 当時、松茸などは松林の側を通っている道路の際などにも生えていた。
時期になるといつもいつも焼き松茸を食べさせられていやになった時もあった。
 学校などから家に帰ると家の入り口などに、誰が置いてくれたのか、
松茸が時々置いてあったりした。

 現在では、えぇー!本当にぃ?・・と言われそうだが本当の話である。
昭和三四年頃を境に松茸は全く、殆ど出なくなってしまった。
 何故なのか、その原因は解らないようだ。
栽培方法も研究はされているようだが、養殖松茸がスーパーの店頭に並んだ
話はいまだ聞いたことはない。


D ご馳走をして食べる


ため池=稲作の田んぼに安定して水を供給するために水を
 溜めて置く池でそれぞれの谷に個人や、共有の池が沢山あった。
あまり大きくない溜め池ばかりであったが、どうびんやタニシが沢山いた。
 自分は素潜りは、息が続かず「どうびん」を獲ることは出来なかったので
いつも堤防から先輩が潜っているのを見ていた。

 このような溜め池はゴルフ場、工場の進出や圃場整備や休耕田などで池の必要が
無くなり殆どが埋め立てられたり使用出来なくなっている。
(注:どうびん=黒い大きな二枚貝・正式名は知りません。最近ではこの貝を見ることはない)

 子供だけで収穫したものを料理して煮たり焼いたりして食べたりもした。
食べることは、ほとんど上級生の家でお世話になっていた。
「どうびん」も食べたが、あまり旨くはなかったように思う。
 「たにし」は串に刺して味噌を付けて焼くのであるが
これは旨かった。

あるときなどは、その家の夕飯用のご飯を食べて終い怒られたことがあった。

 当時は、かまどでご飯を炊いていたため炊き上がるのに時間がかかり、
夕方暗くなるまで外仕事をやっていて、家に帰ってから米をかし(研ぐ)てから
 焚いていては夕飯が遅くなってしまうので、怒られるのは当然であった。

 また、あるときなどは自然薯を摺って食べた時は皆全員が咳は
出るし、腹は痛くなるしびっくりしたことがある。
誰かが自然薯に良く似たツルで食べられない薯を堀って自然薯と一緒に
摺り込んでしまったからであった。

 当時の上級生・下級生などの上下関係はゆるむことはなくて、
上級生は心技体の全てに於いて勝っており下級生の面倒を
良くみてくれていろんなことを教わったものである。
それぞれのことについて、振り返って見るといろいろと懐かしい思い出が
次から次へと浮かんでくる。
 なぜか小学生の頃、特に分校の頃のことが多く記憶に残っている。

    平成一九年五月記

※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。

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