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母が私だけに話してくれた内緒の笑い話!
※ (一)はじめに、
私が何歳ぐらいになってからのことだったかは覚えていないが
母が笑いながら、母自身も懐かしそうに思い出しながら私に
話してくれたことがあった。
この様な内容の話を改めてまじめに、聞かされたのはこの時が
最初で最後であった。
母から聞いた話の内容から私もその情景が自然と鮮明?に浮かんできた
ものである。
多分にそうであったろうとの私の想像をも含めてこの機会に
書いてみることにした。
※ (二)母の想い出話、
母が隣村から
駕篭
(
かご
)
に揺られて
嫁いできたのは大正十三年の二一才の時と聞いている。
嫁いで間もない頃に失敗した出来事を懐かしそうに笑いながら、
このことはまだ誰にも喋ってないので誰も知らないことなんやけどと
笑みを浮かべて私だけに話してくれたの思い出した。
事件?から何十年と経っていても後ろめたい、すまなかった気持ちが
心の隅に残っていて、息子に告白することで気持ちを
楽にしたかったのかも知れない。
明治、大正、昭和と時代を生き抜いて、一〇〇才で亡くなった。
その人生の中には大変な苦労やいろいろなおもしろいことも
あったことと思う。
※ (三)まえがき @ 「ムシロ」
母の失敗談を記述する前に、当時の家屋の造りや様子を少し前書きを
しようと思う。
この頃の家屋の多くは、くずや葺き(わら)の屋根で間取りは田の字を
主体に出来ており
土間、勝手場、馬屋(牛小屋)などが同じ棟の中にあった。
家族がいつも食事をするところは北座(座敷)と呼んでいた。
我が家では
稲藁
(
いなわら
)
で作った自家製の
筵
(
むしろ
)
が敷いてあった。
どこの家も殆ど同じ造りで部屋は板の間(床が板だけの部屋)かその上に
筵を敷いていた。
畳やうすべりは目が細かくて正座していても直ぐにはさほど足が痛くは
なってこないが板の間は堅くて痛かった。
筵も編み目が
粗
(
あら
)
くて、正座してご飯を食べ終わると
足に筵の跡が残っていた。
現在では板の間や筵の上に正座するようなことはないし、そんな所もない。
畳が敷いてある部屋は仏壇が置かれている「おくで」と呼んでいた
部屋だけであった。
北座・南座・納戸は板の間か筵が敷いてあるだけであった。
※ 左の図面、写真をクリックすると大きくなります。
上から、一般的な家屋の全景・平面図・すり鉢・筵(写真未)
※ (四)まえがき A 「蚕」
当時は殆どの農家が座敷で
蚕
(
かいこ
)
を飼っており、
板の間の方が掃除などの都合が良かったのではと思う。
蚕については殆ど記憶に残っていないが、蚕が一斉に餌の桑の葉を
食べだすと葉をかじる音がざーざーと大きく聞こえていた。
餌にする桑の木が植えてある桑畑があちこちにあり、
子ども達は唇が紫色になるまで桑の実を食べたものである。
現在では桑の木を見かけることはほとんどない。
荒れてしまった畑の片隅などに、桑の木が大きくなって手が届かなくなった
高い枝に桑の実が付いているのを見かけることがあるだけである。
子供の頃は、桑の木は大きくならないものだと思っていたが、
普通の木と同じように大きくなることを知ったのは蚕を
飼わなくなってからずいぶんと後のことである。
※ (五)まえがき B 「布団の綿の入れ替え・機織り」
家の維持管理(布団の綿の入れ替え・障子の張り替えや着物、草履、
米を入れる「カマス」や「ふご」「
蓑
(
みの
)
」)などの
必需品は全て父や母たちが夜なべなどして作っていた。
筵は冬の田畑の仕事が少ない時に立ちの高い筵を織る機械があって
トーントーンとどこの家でも織っていた。
機械と言ってもそれを動かすのは人力だけあるが・・・
着物も畑で綿を作り、綿は綿菓子のようなもので中心には種があった。
その種を取り省くのに小さな木製の器具(ロクロ?)があり、
ロクロを廻して種を取り省き綿だけになると紬車で糸にして桶の中に入れて、
色粉で染めて機織り機で織っていた。
母が織っているところを時々見ていたが、縦糸の隙間に横糸(糸車)を
飛び交わせるタイミングとその早さは神業的に思えたものだ。
※ (六)まえがき C 「結婚祝いの品」
昭和四十一年に私が結婚して分家した折りに、本家の父から
僅かではあるが谷間の水田を財産分与され、同時に米作りの農作業に必要な
道具なども頂いた。
米作りには筵も必需品であり他の地区へ嫁いでいる姉が
気を遣ってくれ、筵を十枚織って結婚のお祝い品として届けてくれた。
ちょうどこの頃を堺に米作りの農作業も手作業から機械へと
変わっていく時代であり、籾(もみ)の乾燥も天日干しから乾燥機へと
替わり筵も余り使わなくなってきていた。
お祝いに貰った筵は一度も使わずに長年の間、物置に入れてあったが
殆どの筵がネズミに食われて大きな穴が開いてしまった。
姉に申し訳なかったが仕方のないことでもあった。
家内も私も定年になり、最近になて少しばかりの畑で野菜を作っているが、
収穫した野菜などを干したり、並べたりするときに筵があったらなぁ・・と
思うときがある。
気を付けて保管しておけば良かったと後悔している。
※ (七) 手間がり(助け合い)
さて、話を母の失敗談に戻すことにする。
この地区の大半の農家は五反から七反くらいの田圃を耕作していたが、
田植え時期・稲刈りの時期・谷間いの田圃などが水害で埋もれた時※
家の屋根葺きなど、健康面やなにかの都合で農作業が遅れる時は
親戚や隣り近所でお互いに手伝い助け合いをしていた。
これを「手間借り」と言って日当で支払うのではなくて、
またいつの日にか同じように働いて返すのである。
母が失敗した事件?は、稲刈りを数人の親戚や隣り近所の方に
その手間借りを受けて、その日の夕食時の支度中の出来事である。
(※=田の畦が崩れた時の復旧作業や新しく開墾することを田普請と呼び
家を新築することを普請、家普請と言っていた)
※ (八)みんなで食事
このような農作業の時の昼や夜の食事は、当然ではあるがその家が
準備をして食べてもらうのが普通であった。
昼食は、もちろん車などは無いので田圃から家まで歩いて帰って来なければ
ならずその時間が、もったいないから田圃で食べることが多かった。
ご飯は
櫃
(
ひつ
)
ごと持って行き、漬け物やさいみそ(麹で
作った自家製のみそ)など簡単なおかずと都合良く魚屋さんが来て、
サンマがあればシッポを頭の所に通して丸く輪にしてわら火で焼いていた。
田圃にタニシがいれば焼いて食べる時もあった。
手伝いに来てくれた人たちが揃って、たまには世間話をしながらの
食事をするのは大人たちでも楽しみの一つであったのかもしれない。
夕食は家に帰ってからゆっくりと食べていた。
おなごし(女性)も、おとこし(男性)と同じように野良仕事を
しているのだが、夕方になると、少し早い時間に仕事を終えて家に帰り
食事の準備するのである。
母の失敗もこの時に起こった!
※ (九)母、
薯汁
(
いもじる
)
(
自然薯
(
じねんじょいも
)
)を作る
稲刈りの時期のご馳走?と言えば、自然薯で作る薯汁がある。
擂り鉢で薯を
擂
(
する
)
るのに少し時間を要するが、
他のおかずを多く造らなくても薯汁だけでご飯が進むので母も薯汁を
作ることにしたのではないかと思う。
いつもは母が
松茸
(
まつたけ
)
などを入れただし汁を準備して父が土の中に入れて
保存してある薯をその時に使う分だけ掘り出して擂り下ろしていた。
天然の自然薯は粘りも強くて擂っていると擂り鉢が一緒に動くので、
子供の私は擂り鉢が動かないように押さえる役目をしていた。
すりこ木をぐるぐると廻すのは、結構大変で腕が痛くなった。
だし汁が熱いと
団扇
(
うちわ
)
であおって出来るだけ
冷
(
さ
)
まして、
擂っているその脇から少しずつ、だし汁をシャモで入れていた。
熱いだし汁を入れると、薯が笑う(煮える)と言って気を使っていた。
薯汁が笑うと味が半減してしまうからである。
この日は母一人でその準備をしていた。
一人で擂る時は擂り鉢が廻らないように両足で擂り鉢をはさんで動かない
ようにしてすりこ木を廻していたに違いない。
板の間では擂り鉢が廻り易いので凸凹して不安定ではあるが周りにくい
座敷の筵の上で擂っていた。
皆が田圃から帰って来る時間も迫り、気持ちの焦りもあったのか、
だし汁も入れ終わって立ち上がった時に擂り鉢が倒れた。
当然に中の薯汁も筵の上に広がってしまい、母は慌てて筵の両端を
折り曲げてこぼれないようにして擂り鉢の中へ戻した。
薯汁を新しく造るのにはとても時間の余裕が無く、やむなく戻した薯汁を
そのまま食べて貰うことにした。
筵は畳や薄べりと違って織り目が粗くホコリやチリ、髪の毛、砂など
あらゆるものが、その織り目の溝を埋めていた。
もし掃除機があれば織り目に入っているものを吸い取ってしまうので
それほどでもないが。
そんな、あらゆるホコリやチリを薯汁が吸収して擂り鉢の中へと
戻って行ったのである。
当時どこの家でも敷いてあった筵の汚れ具合を知っている者は、
その情景を思い浮かべることができるのである。
薯汁がこぼれて濡れた上面を床面側に裏返して、母はなにごとも
無かったように手伝いをしていただいている皆の帰りを待った。
母の胸の内は平常心ではなかったであろう。
※ (十)薯汁のお代わり
皆が擂り鉢を囲んで車座に座り、それぞれが自分の器に薯汁を入れて、
お代わりもしながら「うまい。」「うまい。」と言いながら擂り鉢が
見る見る内に空っぽになっていった。
母は給仕をしたり、少し離れたところから皆の食事の様子を見ていた。
噛んで食べるものであれば解ってしまうかも知れないが、
薯汁はご飯に掛けて食べてもほとんど噛まないでそのまま飲み込んで
しまうのも幸いした。
何事もなく食事が終わった。
照明の電球も四十
燭
(
しょく
)
(W)一個しか無くて
薄暗かったので何が入っていても
ハッキリと見えなかったことにもまた助けられたようだ。
しかし、母も嫁いで間もない頃で年も若かったし、見つかって
怒られはしないかとびくびくして落ち着かなかったと話してくれた。
※ (十一)おわりに、(母に感謝)
また、こんなことも話してくれた!
母は自分を含めて八人の子供をもうけている。
次から次へと生まれてくるので、流産させようとして少し高い
田圃の
畦
(
あぜ
)
から何度か飛び降りたそうである。
どの子供を身ごもった時に飛び降りたかは聞かなかったが、
兄妹皆が元気に丈夫に生まれて育ってしまった(笑)
話を聞きながら当時の母の苦労を感じたものである。
私も母にはいろいろと多くの心配や苦労をかけてしまった。
子供が母親に向かって言ってはならないことを言ってしまったことがあった。
今でも申し訳なく思い、忘れられないことである。
井戸端で母が「たらい」と洗濯板を使って洗濯していた時、井戸の側に
大きなイチジクの木があった、自分はそのイチジクを食べながら
母と口論となり、「産んでくれと頼みもせんのに、勝ってに産んどいて・・」
と言ってしまった。
今でも私の心の中に刺さった棘(とげ)となっている。
母は人間として素晴らしい自慢の出来る人であり、私が尊敬できる唯一の
女性であり母であった。
母は手先が器用な女性で、晩年はお手玉や籠、花瓶などいろいろなものを
作って知人や孫などに配っていた。
苦労話などもっともっと聞いておけば良かったと後悔している。
平成一九年九月 記
※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。
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なります のでお詫びします。
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