okuyan72@yahoo.co.jp


子供のころのこと (一)愛犬 ”ころ”

@ 昭和二〇年代、山村の農家の情景


昭和二〇年代の終わりごろ、小学校四〜五年生の頃のことを思い出してみようと思う。
当時は、牛は百姓家には労力として絶対に必要であり何処の家でも必ず飼っていた。
(馬も数軒あった)
家の造りは茅葺き(くずや)屋根の家が多かった。
玄関(くぐり戸)を入るとすぐ右側に馬屋(まや)がありそこに牛がいた。
いつも牛の健康状態が判るように本家の中で飼っていたのではないかと思う。
いかに家族同様に大事にしていたかが伺える。
自分の家でも友達の家でも、玄関を入るときは牛が奥へ引っ込んでいる時を
確認してから入っていったものである。
馬屋から頭を出している時は、よだれを垂らしたぬめりのある口で体を
舐められたりしたものである。
(注:友達の家の中へ入るときは「入らせてね!」
座敷へ上がるときは「上がらせてね!」と必ず声を掛けて「ええよ!」と
許可の返事をもらってからでないと、家の中に入ったり・座敷へ上がったり、
することはなかった)

A 「にわとり」と「ヤギ」を飼う


殆どこの家で「にわとり」や「ヤギ」を飼っていたように思う。
「にわとり」は雌鳥が四〜五羽で雄鳥が一羽いた。
朝、夜明け頃になると何処からともなく雄鳥の元気な鳴き声が聞こえてきたものである。
雄鳥は鶏冠(とさか)も大きく垂れて貫禄があり存在感があった。
またニワトリも、おしめを当てているような小さな子供に対しては
見下げていたようで、子供を追いかけている光景を時々見かけた。
雄鳥を飼っていたのは卵を有精卵にして、ひよこを育てるためである。
雌鳥が卵を抱いてひよこになるまでに二四日?ほど卵の上にしゃがんでいた。
これを「すももる」と言っていた。
今スパーなどで買って来る卵は弱々しく感じるが、
このように放し飼いのような状態の鶏が産む卵は皮は厚く茶色で丈夫であった。
卵は鶏小屋で毎日産むことはなく、屋敷の周りで鳥が安心して居られそうな所で
卵をよくみかけたものである。

B アイスキャンデー屋さんが来る


卵で思い出すのは、夏の暑い時に両親などと家族で昼寝をしているときに、
鐘(リン)を鳴らしながらアイスキャンデー屋さんが太いタイヤの自転車に
キャンデーの入った木の箱の横に旗を立てて、しも(楚原のことをしもと呼んでいた)
から時々来ていた。
夏の昼過ぎの暑いとき、キャンデー屋さんが来るころはいつも
大人も子供も昼寝をしていた。
どこの家でもクーラーはもちろん扇風機もなかったので、
家の廻りにはまっている全ての戸は開けっ放しにして風通しを良くしてパンツ
ひとつで寝ていた。(大人の男ははふんどし・女はおこし)
八月一五日の盆が過ぎる頃までは、蒸し暑くて蚊もいたし枕元の手の届く所に
団扇とシュロの葉で作ったハエ叩きを置いていた。
蚊帳も吊っていたが、風通しが悪くなるで、蚊帳の裾を捲り上げていたことが
多かった。
キャンデー屋さんの鐘の音色は風鈴の音を大きくしたような音で、
遠くからだんだんと大きな音色になって聞こえてきた。
(大人も3時頃までは寝ていて、そして少し涼しくなってから田圃の草取りに
出かけていた。今は除草剤を使っているので手で草を取ることはないが、腰を丸めて
稲先が顔や眼に当たらないように網の面を付けて草を取っていた。
子供は少し寝て、川やため池に浴びにいったり遊びに行ったりしていた)
卵を一つでアイスキャンデー二本と交換してもらえたが、 v それでも家族が多いので卵は貴重でありなかなか親はアイスキャンデーと
交換しても良いとは言ってくれなかった。
屋敷周りのどこかで産んでいる卵を探して卵が見つかった時は、
交換しても良いか?親にねだったものであるがそれでも度々は許可がでなかった。
お金で買ったような記憶はないし、一本が幾らしたかも記憶にない。
時にはこんなこともあった。
キャンデーが早く売切れたり、キャンデーを冷やす氷とキャンデーが溶けて
入り交じった冷たい水をキャンデー屋さんが箱からその溶けた水を捨てるときに、
手をかざしているとその冷たい水が手に当たる冷ややかな気持ちの良い感触は今でも
手に残っているような気がする。

C ヤギの乳しぼり・うさぎの繁殖で稼ぐ


ヤギの飼い方は、便所と物置小屋などの横にダレを出して雨がしのげる所で
飼っていた家が多かった。
乳を搾るときはヤギを外に出して搾っていたように思う。
乳の絞り方は、
最初に暖かい布きれで乳房を拭きよく揉んでから乳房の元の方を最初に掴み
手の平と指を順番に乳首の先の方へと握っていくのである。
乳首から水鉄砲のように元気よく飛んでいた、時には二本一度に飛ぶこともあった。
搾り初めは受けている鍋などの器に当たりジャージャーと
気持ちのよい音を出していた。
乳搾りも良くやったが、自分はその握り方の移動の仕方がどうしても上手に
タイミングが取ることが出来ずあまり上手に搾ることが出来なかった。
大人が上手に搾るとヤギも気持ちが良いのかおとなしくじっとしていた。
乳も多く出るようである。
ヤギの乳は草の匂いが強くてどうしても好きになれなかったが
おかさ(母)からは子供の健康を思い飲むように強いられたものだ。
自分はどうしても喉ごしが悪くてなるべく飲まなくても済むように逃げていた。
冬は鍋ややかんなどで暖めて飲んでいたが、少しさまる(冷める)と表面に
湯葉のような幕が貼っていた。
乳の濃度は現在市販されている牛乳よりずっと濃っかた。
そんな子供のころ影響か現在でも牛乳は飲みたくないし飲んでいない。
ヤギは人間の大人と子供を区別していて子供は自分より下位(つけ込む)に
とらえていたように思う。
ヤギには雌でも角があって怒ると頭を下げて攻撃してくることがあり、
怖かったのを覚えている。
五年からは五kmほどの砂利道を本校まで道草をしながら歩いて通っていた。
雨降りは草履のハネが背中まで掛かるので、草履を脱いで和傘の桟に差し込み
裸足で歩いていた。
通学途中で腹が減ると野菜や果物などは畑から黙って頂いていた。
「なす」や「キュウリ」は夏の暑い日差しで生暖かかったが、それでも
がぶがぶとかぶりついて食べた。
仲間外れなどのいじめもあったし、悪いこともずいぶんとしたものである。
冬になると家に着く頃には暗くなってしまうこともあった。
一度、こんなことがあった!
朝はいつものように家を出て学校へ着いたのは午後の最後の時間、音楽の
授業中であった。


猫はもちろん犬も放し飼いであったし、にわとりも日中は殆ど家の周囲で自由に
遊んでいたように思う。
その当時の子供たちには塾もなくて殆どの子どもは学校から帰ると鞄を
放りだして外を飛び回って遊んだり、家の手伝いをしていたが
犬が人に噛みついたりはしなかった。

ニワトリを追いかけることはあっても、
ニワトリには羽があり襲われるようなドジなニワトリはいなかった。

襲われた話も聞いたことがなかったし見たこともなかったように思う。

そして子ども達は自分の責任で、鳩やウサギ、メジロなどを飼っていた。
繁殖させて売買もしていた。
自分は鳥類は飼ったことは無かったが、ウサギを飼っていた。
生まれたウサギは友達や業者に売ったものである。
(学校の先生にも売ったことがあった)
一羽、五〇円ほどであったように記憶している。
その頃は、あめ玉、一つが五〇銭か一円ぐらいだったと思う。
一〜二羽なら良いが、数匹、また子どもが生まれると餌の確保や小屋の掃除などが
結構大変であった。
現在ではもう何処の家も牛、ヤギやうさぎなどを飼っている家は一軒ももない。

C 賢い愛犬「ころ」のこと、


前書きが長くなったが、私が今でも絶対に忘れることができないのは・・
飼い犬「ころ」のことである。
昭和二五〜二九年の頃と思うが、我が家に「ころ」と言う名前のおとなしい
賢い雑種の犬がいた。
(当時は飼い犬と言えばみんな雑種ばかりで、ほとんどが放し飼いであった)
誰かに貰ったのか、どこかで拾った犬なのかは覚えがないが、本当に賢い犬であった。
畑や田圃へ行くときは必ず付いて来て付近で遊んでいた。
あるとき、家の者が田圃に荷物を忘れて家に帰ったことがあった。
夜遅くなっても犬が帰って来ないので、皆が心配をしていたところに
田圃の近くを通りかかった村の人から「犬が蓑の上に座とったどね!」とわざわざ
家まで来てくれたことがあった。
荷物の番をしていたのである。

D 「ころ」鉄砲で撃たれる!


あるときのこと、隣の家の田圃が山の谷間にあり、その田圃へ「ころ」が一緒に
付いて行き、付近の山で遊んでいたらしく、
その時に猟師にウサギか猪と間違えられて鉄砲で撃たれた。
撃たれた山から家まで一キロちょとの登り下りのある谷間の道中をどれほどの
時間を費やしたのか判らないがそろそろと歩いて帰ってきた。
その時ちょうど自分も家にいたときで、そのときの犬の姿は今でも鮮明に覚えている。
家にたどり着き家人の顔を見た時の顔は、苦しい顔の中にも安堵からか本当に
嬉しそうであった。
あるだけの精一杯の力をふりしぼって帰ってきたのだと思う。
下腹部が口を開き、あばら骨(肋骨)が見えていた。
そして内蔵が腹の口開いたところからぶら下がり、血がしたたり落ちていた。
偶然にも肝心な臓器は鉄砲の玉から外れていたのだと思う。
その時隣村の親戚の方が家に来ており親戚の人は、傷口を見てすぐに
「撃たれたな!」と言っていた。
そして「これはもうあかんぞ!」とも言っていた。
それでも父と一緒にその方が一生懸命に手当をしてくれてた。
腸らしき内蔵を腹の中へ戻して布きれで腹をグルグルと巻いていた。
消毒などはしていないと思うし、内蔵を水洗いしたぐらいと思う。
手当している時の詳しい様子は、自分は見ていることが出来なかったのか記憶が定かでない。
獣医さんは楚原に一軒あったが、とても犬や猫を病院で診てもらうと言う風潮や
感覚はなかったと思うし、治療費などに当てるお金などあるはずがなかった。
冬だったこともあり、「ころ」は手当が済んでからは風呂を焚くかまどのところで
一月ほどだと思うが寝ていた。
腹を巻いている白い布が腹から出てくる血のような水のようなもので濡れていた。
乾いたところやまた濡れてきたところなど地図の様に幾重にも模様が付いていた。
当時の風呂は桶風呂で焚き物は、あまり良い焚き物は使っていなかった。
古くなった茶の木や桑の木の根っこなどや屋敷周りの木の枝などを切ったものを 焚いていた。
(焚き物として綺麗に揃えた柴やなぐりは上のご飯やおかずなどを焚くのに使っていた)
置き火が出来ると火の上から籾殻(もみがら)をかぶせてもやした。
これは炎も立ち上がらずじわじわと燃えて都合が良かった。
犬が寝ている間は昼間も風呂桶に水を入れて籾殻を少しずつ
燃やして寒くないようにしてやっていた。
出来る限りのことは家人の誰かが代わる代わる面倒を見ていたように思う。
「ころ」がついて行った隣のおじさんも何回も謝っておられたが、仕方のないことであった。

E 「ころ」奇跡的に助かり、元気になる!


一ヶ月ほど寝ていたと思うが、やがて立ち上がれるようになり歩けるように
なって以前より元気なくらいに治ってしまった。
人間なら大変なことであるが動物の回復力、生命力の強さには驚くばかりである。
そして以前のように元気に飛び廻ってなにもなかったように過ごしていた。
その頃は「こじきさん」が時々来られていて父と将棋をさしたりしていたこともあった。
「ころ」はその「こじきさん」に付いて村の中を一緒に廻っていたこともあった。
「こじきさん」とは現在のホームレスの方のような人で、各家を托鉢されていた。
また、母はよくご飯を差し上げていたこともあった。それぞれの家の農作業なども
手伝っておられたこともあった。
村人たちは、その方たちを親しみを込めて「こじきさん」とさんを付けて呼んでいた。

F 犬の捕獲のこと


そのころ、放し飼いの犬を捕獲するのに自転車に大きな(かご)を付けて、
時々二人ずれでこられていた。
この籠は上部がネットで被せてある四角い丈夫な籠であった。
大人も子供たちも村人は皆、犬の味方であり、その捕獲員さんの方へ犬が
寄らないように気遣っていた。
犬が捕まると動物園のライオンや虎の餌にされると皆がそうのように信じており、
可哀想と言う気持ちがあったからだと思う。
捕獲員さんは危険な大事な仕事をされているのに「犬獲り」と言って皆が嫌っていた。
野良犬が多かったのかは記憶にないが、飼い犬も殆ど放し飼いであったが
咬まれたことは一度もなかった。
家によっては繋いである犬もあったが、散歩に犬を連れて歩いている人など
見たことがなかった。
犬を散歩させるような時間の余裕などなかったに違いない。
多分繋ぎぱっなしではなかったかと思う。ストレスがたまるのか、
繋がれている犬の方が却って吠えられて怖かった。
繋がれている犬に顔を咬まれて大怪我した子供もいた。
犬の登録や狂犬病の注射もあったはずだし、
家の玄関に釘で打ち付けるように穴の開いた楕円形の鑑札と犬の首輪に
付ける小さなプレートもあった。
しかし、登録、鑑札をを受けている犬は、僅かではなかったろうか。

G 愛犬「ころ」との別れ!



ある日家に帰ると捕獲員さん二人が庭(かど)で座って待っていた。
家の中に入ると「ころ」が風呂場の前のいつもの居場所で伏せていた。
「ころ」も不安げな落ち着きのない顔をしていたように思えた。
自分にはもう事の成り行きは察しがついた!
どうなるか心配で胸の、心臓の高鳴りを押さえることが出来なかった。
自分一人でどれほどの時間を不安な気持ちで過ごしたかわからないが、
凄く長く感じられた。
捕獲員さんがそのまま帰ってくれないかとそればかりを願っていたように思う。
両親が野良仕事から帰ってきて、父が庭(かど)で捕獲員さんとなにやら話していた。
自分は家の中から聞いていたが、ハッキリと聴き取ることはできなかった。
話の内容を知りたい気持ちと聴くのが怖い気持ちとで落ち着かなかった。
(後で父から聞いたが、大抵の犬は、おびき寄せて捕まえるが、
こんな賢い犬は始めてやと捕獲員さんが言っていたらしい)
話し合いはそんなに長くはなく、父が家の中へ入ってきて母と話していた。
捕獲員さんに五〇〇円を支払うと鑑札が貰えたのか?一時的に見逃してもらえたのか
わからないがこのまま「ころ」を飼うことができたようだ。
その五〇〇円の工面(くめん)(準備する)が出来ないかと相談していた。
(今考えるとこの行為は当時としても違法でなかったか?・この頃の五〇〇円は現在のどれほどの金額になるかは知れないが、この数年後に小学校の修学旅行の代金五〇〇円が学校へ納められなくて行けなかった同級生がいたことを思うと大金であったのだろう)
自分も「ころ」をやらんといてと嘆願したが、聞き入れてもらえなかった。
五〇〇円がくめん出来なかったのだろう。
父が「ころ」をぶらんさげるようにして、家の外で待っている捕獲員さんの
自転車の籠の中へ入れた。
父もきっと辛かったことと思う。
「ころ」は入れられるのをいやがりもせず暴れることもなくおとなしくしていた。
「ころ」は飼い主の行いに最後まで従順したかと思うと余計に不憫であった。
自分は捕獲員さんのことが怖いのと、「ころ」が可哀想でとても近くには
寄って行けなかった。
ただ、その様子を家の中から隠れるように見ているだけで精一杯であった。
捕獲員さんの自転車の荷台の籠に被せられた太めで升目が大きく編まれている網の
中から「ころ」が家の方見ながら、自転車に揺られて連れられていった。
「ころ」のその時の気持ちはどんなであったろうかと思う。
これまで飼ってもらえたこと、鉄砲で撃たれて助けてもらったことなど
感謝していたのか!
きっと薄情な家族やったと恨んだに違いないと思った。
これまで「ころ」と過ごした想い出や「ころ」は動物園でライオンか虎の餌に
されるのやとそんな思いが頭の中を体の中を巡り巡った。
あまりの悲しさ、心の動揺に涙も出なかった。
なぜ、体を張って自分に出来る限りの抵抗、嘆願しなかったのか、
裏口から「ころ」を連れ出して逃げなかったのかと、
なにもできなかった情けない自分自身を後でどれだけ責めたかわからない。
その後の数日は、逃げ出して帰ってきていないか!
いつもの所で寝ていてくれないかと願ったりした。
もう今頃は餌にされているのではないかと思い、子供心を痛めていた。
今でもその時の自分がなにも出来なかったことに後悔し、「ころ」に申し訳ない気持ちで一杯で辛くなる。
これまで決して忘れたことはない。
父の晩年、病床で「ころ」のことを覚えとる?と聞いてみたら、
「可哀想なことしたなぁ」と言った。父もやはり忘れることはなかったのやと、
少し心が安らいだ。
自分は「ころ」から命の尊さ大事な多くの事をこのときに教わった気がする!
心よりありがとう!

H 家族になった犬や猫たち


結婚して所帯を持ってからこれまでに、何匹の犬と猫に出会って一緒に 過ごしたかわからない。
犬一匹だけは知り合いのブリダーさんから購入したことがあるだけで、
他の全ての犬と猫は捨てられたか、迷子になった子達ばかりでありる。
母猫と子猫三匹が一緒に捨てられたのか、揃って来てくれたことがあり、
その子猫の二匹のみ雄であったが、ほかのすべての犬と猫は皆、雌ばかりであった。
一度は猫が、知らない間に出産していた。元気な子猫が4匹であったが、
みな知人にもらわれていった。
来てくれた犬や猫は皆、避妊手術をしてもらった。
一匹の猫はすでに避妊手術はされてはいたがわからなかったので再度メスを入れられた。
現在は犬が一匹と猫が二匹仲良く家族として暮らしている。
縁があって来てくれるのであり、せめても「ころ」へのおわびの気持ちでもある。
小さいうちは可愛いので、飼ってみようと思うかも知れないがただそれだけでは
最後まで飼えるものではない。
歳を取れば毛並み悪くなり、病気にもなるし、目が見えなくなったりと、
人間と同じで元気な時ばかりではない。
幸いにも家族みんなで可愛がってくれている。
孫達も犬、猫だけでなく小さな虫たちにも興味を持ち命の大切さを
理解してくれている。

どんな動物でも必ず最後まで責任を持って飼ってほしいものである。
平成一九年四月記

※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。

※ご覧のプラウザによっては
行の改行位置が不規則に
なります のでお詫びします。

okuyan72@yahoo.co.jp
このページはnetscapeやFirefox
では縦書きで表示されません。
※Script by ako's cyberpage


inserted by FC2 system