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※ はじめに・・・


子供の頃の出来事は自分でも不思議なほど、当時の出来事や情景が
次から次へと浮かんでくる。
しかし、最近のことは直ぐに忘れてしまう。
数日前のことはもちろん、昨日の夕食のおかずは何を頂いたのか
全く思い出せない。
最近では、たとえば欲しい物があって物置へ何かを
探しに行っても、何が欲しくて物置へ取りに来たのか
忘れることが度々である。
そんな自分がおかしくて、くすくすと一人で笑っている。

このような忘れ方をするのは、ひょっとして自分だけではないかと
ちょっと心配になり同年代の者にも尋ねてみたが誰もが
同じような体験をしているらしく自分だけではないことに
安堵したりもしている(笑)が、年は取りたくないものである。





あんなこと、こんなこと!木炭車




※ (一)あっ!自動車が来た!



昭和二〇年代のころは
当地区に自動車がやってくるのは月の内で二度か三度ぐらいであったろうか?
車は現在のようにいろんな車がやってくることはなくて、確か、三重陸運と言う
運送会社で阿下喜に営業所があった。
通称、三陸(さんりく)と呼んでいた。 その会社の四トン積みか?五トント積み?程のトラックが来ていた。
燃料は化石燃料ではなくて木炭(割木)であった。
通称木炭車と呼んでいた。
軽油や重油を燃料とする普通のトラックもあったと思うが、
確かな事はかわからない。 同じく阿下喜にある製材所の小型トラックで積載量は確か五00sの
ボンネットタイプダットサンであった。
製材所の車はこの地区に親戚があって、所用があるとその車で時々来られていた。
この小型トラックは、木炭車ではなかったが手回しでエンジンを
始動するようにもなっていた。


この頃の自動車は、エンジンの調子が悪い時の為に手か足でエンジンを
回して始動が出来るようになっていた。
四輪車は正面のバンパーに穴が空いておりそこからクランクシャフトを
差し込んでエンジンに連結して手で回していた。

小回りの良い三輪貨物車のエンジンの始動方法は足で踏むキック形式であったし、
ハンドルは自転車と同じ弓型であった。
方向指示器は現在のようなウインク形式ではなくてワイヤーでバナナのような
形をしている
指示器を手動で上げ下げをして表示していた。
三輪貨物車は林道など細い道で小回りが良いので主に林業関係の方が
三輪貨物車昭和五〇年代前半頃までは多く使われていたように思う。


また違反ではあるが法定の積載量の倍も三倍も積んでも平気?であった。

道路は地道であり、車輪が通って行く両側は車輪の跡で低く下がって溝のように
なっており、道路の真ん中は三輪自動車以外はほとんど車輪が通らないために
草が生えているところもあった。
両端より地面が盛り上がっていたのでハンドル操作が大変であった。
自分も何度か運転したことがあったが、クッションが悪く尻が痒くなったり、
ハンドルを切るのに腕が痛くなったのを覚えている。
現在では三輪貨物車を見かけることは皆無になってしまった。



またまた、話が逸れてしまったが・・・
自分が思い出せるのはこの二種類の自動車だけであった。
時には他の自動車も来ていたのかも知れないが、自分の記憶の中には
全く残っていない。

運送会社のトラックの荷物は、米や木材、燃料(炭・割木・亜炭★)などを
その時々に運んでいたのだと思う。


★ 亜炭:当時、市之原では亜炭を採炭しており村人もその作業に多くの方が
従事されていたようだ。
自分の父も坑道に入って掘っていたと聞いていた。
地区の戸数も現在は百戸足らずだが当時は百二十数戸あったと記録に残って
いる。


「自動車や!!」「自動車が来た!」

子ども達はどんな遊びをしていても遠くから車のエンジン音が
聞こえて来ると車が通る道の方へ走って行き車が近づいてくるのを待っていた。
分校で授業を受けていても車の音が聞こえてくるとそわそわと落ち着かなかった。
四輪車が通れる市之原へ通じる主な道路(みち)は前山から多度方面への道と
板東新田から阿下喜方面に通じる二本の道があった。
どちらの道にも、本村から前山や板東新田にさしかかる所に急な坂道があった。
道は地道(砂利道)で凸凹であり、車の性能も悪くて平地でも早く走ることはなかった。
上り坂になるとエンジン音変わり一気に速度が落ちた。



※ (二)風車で火を(おこ)



子ども達は部落内で運転手さんたちがトラックに荷物を積んだり降ろしたりと
仕事をしている付近で荷作業がいつ終わるかを気にしてなんとなく待っていた。
待っている理由は、荷台の下に燃やす釜があり、火力を大きくするために
風を送る手回しの風車が付いていた。
その燃焼釜の手回し風車を回したいのと帰りのトラックの
荷台に乗って行きたいが為である。
運転手さんたちの荷作業が終わり、子ども達も車の横で並んで待っていた。
風車を回す順番を前もってジャンケンで決めていてその順番に並ぶのである。
風車を回す回数も一人何回と決めていた。
また、良い?運転手さんだと風車を回してもらったお礼に村はずれまで
乗せてくれることを期待してのことである。
燃料になる割木を短く切った木片を入れるところが運転席のすぐ後ろの
荷台の角にあった。
車を動かす前に、先ず釜に木炭を入れて風車で火力を大きくする必要があった。


※ (三)荷台に飛び乗る!



火力も強くなり車が動き出すと子ども達も車の後ろに付いて走り出していた。
運転手さんらに見つからないように、
荷台に掴まったり飛び乗ったりして喜んでいた。
車が上り坂にさしかかり、その坂道の途中で速度が落ちると飛び降りるのである。
坂道を上りきってしまうと下り坂になり速度が速くなって飛び降りが
出来なくなってしまう。
飛び降りる時は、いくら速度が遅いからと言っても荷台から直接道路へ
飛ぶとかなり危険であり怪我をするので乗るときと同じように荷台の
ドアーなどに掴まって足を道に付けてしばらくは車と同じ速度で
走ってタイミングを見計らって車から手を離すのであるが車に
掴まっているときは歩幅も大きくなって空中を飛んでいる様な感覚だが
手を離したとたんに大きな歩幅が保たれなくなり上半身が前かがみになって、
勢いよく転ぶ時もあった。
手のひらやお腹を擦りむく時もあった。
手のひらやお腹の傷は、他の箇所とは少し違った痛さがあったように思う。
速度が速くなる少し前まで出来るだけ荷台に留まっているのが、
勇気があり自慢できることであった。


運転手さん達も全く知らない時ばかりではなくて、子供達が乗っていることは
それなりに承知していてくれてスピードを加減してくれることもあった・・・。
飛び降りるタイミングを逃して阿下喜まで乗って行ってしまった子供もいた。
今では阿下喜までの途中には幾つもの信号機があるので赤信号で車が止まれば
そこで降りることも出来るが、この頃はまだ信号機は一つも無かったために
車は阿下喜まで止まらずに行ってしまったのではないか・・。
また荷台から運転手さんに降ろしてくれるように合図をすれば良かったが
それが出来なかった・・。



※ (四)坂道での苦労!



また、自分たちで作った車や冬のソリに乗って遊んだ坂道、
子ども達にはいろいろと想い出を作ってくれた坂道、
大人達には難儀をかけたこの坂道も今では改修されて昔のその面影を
偲ぶことはできないが、この坂道は現在でも存在している。
自転車に乗って通学している子ども達にとっては少しは大変かも知れないが、
殆どの大人達は車で難なく通り過ぎてしまう為、現在ではしんどさを
感じることはない・・。
昔の人達は、荷車や牛車で荷物を運ぶ時はどこの坂道でもいつも苦労したものだ。
荷車に荷物を積んで坂を登る時も大変であったが、下るときも登るとき以上に
大変で神経を使った。
登るときは、ただ一生懸命に引っ張たり押したりするのだが
下りは荷車にだんだんと加速が付いてくるのでそれを抑えるのに
力の加減が必要であった。
坂道で一旦、荷車が加速してしまうと人の力ではもはや荷車を止めることは
出来なくなってしまう。



雨が長く降ったり大雨の後などは雨水で土が流されて溝が出来たり
石が浮きだして凸凹になり補修するのにも平坦な道路よりも坂道の補修は
手間がかかったと思う。
(道路の補修作業を通称「道作り」と言っていた)


この頃の子ども達は、道で遊ぶことが多かった。
自分たちで作った車やそりに乗って坂道の上から元気良く降りていた。
途中でワッパ(車輪)★が外れたり、ハンドル操作?を誤ると
車ごとひっくり返ったり、溝や路肩から外れて低い所の田圃や畑などに落ちて
行ったものだ。
便所の屋根や小屋の屋根から乗る竹馬や、桶の”たが”を廻しながら走ったりした。
上級生の家のリヤカーに乗せてもらい道から十mほど下の田圃へリヤカー共々、
乗っていた子供数人が落ちて行ったことがあったが大きな怪我をした記憶はない。

★ワッパ(車輪):直径太さ二〇cmどの割れにくい丸太を幅五cmほどで切って
真ん中に穴を開けて心棒を差し込み車輪に使っていた。


道で転んでおでこや膝小僧を擦りむいた時などは、
皮膚が破れて血が(にじ)み出て道の砂ホコリと小石がこべりつくことがあったが、
指先で小石を払い落す程度であった。
包帯やバンドエイドなども無かったし、血が止まらなければ傷口に木の葉っぱを
当てたり、ぼろ布で巻く程度であった。
子供の誰もが、膝小僧や手の切り傷、おでこなどはいつも傷が絶えなかった。
今でも自分のおでこには、この頃の小石が一つ同居している。



大人になっても包帯やバンドエイドなどで傷口を巻くのは好まないし苦手である。
孫たちを見ていると、少し血が出ようものなら大騒ぎである。
おもちゃでも抗菌を施したものが売られているが、あまりにも過保護にすると
抵抗力が無くなってしまうのでは・・・と心配である。

平成一九年一二月 記


※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。

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