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※ はじめに・・・


子供の頃の出来事は自分でも不思議なほど、当時の情景が
次から次へと浮かんでくる。
しかし、最近のことは直ぐに忘れてしまう。
数日前のことはもちろん、昨日の夕食のおかずは何を頂いたのか
全く思い出せない。
○欲しい物があって物置へ何かを探しに行っても、
何が欲しくて取りに来たのか
忘れることが度々である。
そんな自分がおかしくて、くすくすと一人で笑っている。




あんなこと、こんなこと!まつたけ



※ (一)松茸は道端にも出ていた!




この頃はまだまだ松の木さえ生えていれば
松茸はどこにでもと言っていいほど出ていた。
六年生〜中学生ぐらいになると自転車に乗って竹の棒や木の枝などで道路端に

生えている松茸をはね飛ばしたりしていたが家に持ち帰ることはしなかった。
学校から家に帰ると軒先に松茸の笠が大きく開き過ぎたものが
数本置いてあることが時々あった。
近所の方が山で採って来た松茸で、多すぎて処分に困ってのことである。
「松茸、もろてくれんかね!」「まんだあるでええわねぇ」こんな会話も
聞いた記憶がある。
その置いてある松茸を見て「今夜のおかずはまた松茸や!」とわかった。
度々のことであった。

現在では希に出ていたと聞くことがあるだけで全く出なくなってしまった。
雑茸(スドシ・ネズミアシ・センボンなど)もここ数年くらい前までは少しは
出ていたようだが最近ではほとんど出なくなってしまった。
出なくなった原因は、ハッキリと解らないようである。
人間が山仕事をしなくなり山へ入らなくなったことで山が荒れていることは
確かである。


昭和三四年の伊勢湾台風以後出なくなったので台風で松茸山に海の塩水が
かかったからだと言う説もある。
外国や日本でも地域によっては変わりなく出ている地域あるようだし、
なぜかよくわからないのが実状のようである。

当時の事を知らない人に、松茸は道端にでも出ていたと話しても
なかなか信じてもらえない。

※ (二)松茸山の競(せ)り


松茸がこれほど豊富にあった時でも、松茸が出る山の権利はそんなに安くは
なかったような気がする。
山の権利は、個人の山も松茸が出る期間に限り一旦、村(自治体)の所有となり、
村人が競り落とすのである。

その期間は競り落とした人に権利が生じて入山することが出来る。
自分の持ち山でもその期間内は入山することは出来ない。
この山は松茸山であると知らせる為に、山の周囲の所々に稲藁(いなわら)
細く編んだ(なう)縄を(近年はビニール紐に変わっている)張り、
松茸山であることを知らせて入山しないように警告していた。
松茸山の権利を得る競り市は九月の半ば頃にお寺さんの本堂で行っていた。
(この頃はまだ公民館も無くて村の中で大勢が一同に介せるところはお寺の
本堂だけであった)


自分の持ち山でも松茸を採りたければ落札しなければならなかった。
同じような山で例年、多く出る山と余り出ない山があり多く出る山は
おのずと競り金も高かった。

また多く出る年と余り出ない年もあったが、出る出ないは
その年の気候などにも左右されてその年の運であった。
家によっては松茸狩りのお客を入れていた。我が家でもお客を入れていたことも
あり、幾ら沢山に松茸が出てもそんなに次から次へと出るものではなくて
同じ山に連日お客が入ると、さすがに松茸が無くなってしまう。
お客がやってくる前に外で買ってきて保存してある松茸を植えることがあった。
歯磨き粉を松茸の足に付けて植えていた。
(歯磨き粉は袋に入っており粉であった)

始めて松茸を採る人には、植えたものか本当に生えたものか
バレルることはなかった。



※ (三)村の収入源


当然のことではあるが村にも運営資金が必要であり、競りの代金はその貴重な
収入源になっていた。
近隣の部落でも同じような方法を採っていたようだ。


村(区)の主な収入源は松茸山の競りの代金と村所有の山があり、 その村有林の木の売却代金・そして出不足金などであった。
出不足金とは、村には道路の補修や草刈り、村有林の下刈り、苗木植えなどの
協同作業があり、その協同作業に都合で出られなくなった時は、
出不足金を村へ納めていた。
女子や老人が作業に参加しても負担金持参であった。


成人男子を基準に女子はその半額、六〇才以上の男子も一人前には認めて
もらえず、四分の一の負担金を出していた。
その作業によっては成人男子より六〇才以上の老人や女性の人達の方が
経験も豊富であり仕事量も多く働いている者もいて、
矛盾を感じたものである。
この出不足金制度は昭和四〇年代まで続いていたように思う。
(現在でも協同作業は行っているが出不足金の制度はなくなっている)

この他に村内での主な協同作業と言えば、普請(家の新築)や
葬儀の手伝いがあった。
(今では家普請の手伝いは全くしなくなったし、葬儀の手伝いの形態も
昔とはずいぶんと変わり楽になった。)

この手伝いについても多くの懐かしい、楽しい想い出があるが
次回に思い出してみようと思う。



※ (四)アメリカ人がやってきた!



さて、いつの間にか松茸狩りの話から逸れてしまったが、
我が家の松茸山にアメリカ人が来たことがあった。
始めて見るアメリカ人の風貌や仕草にびっくりしたものである。
戦争が終わって世間もだんだんと落ち着いてきた頃で
進駐軍や軍関連の大勢のアメリカ人が日本に来ていた頃である。


どのような縁で我が家の松茸山へやって来たのかは
父や兄からは聞いていないので知らない。
昭和二五年頃の私が小学校の一年生か二年生の時のことである。
数人のアメリカ人と数人の日本人の方あった。
日本の方は通訳をされていたのではないかと思う。
その方は黒の長いコートを着て四角い大きな革の鞄を持っていたのが
印象的であった。


田舎の人間とは明らかに違った風貌であり、子供の私には
どちらの人達にも怖い感じがして近づくことは出来なかったが、
六才年上の姉は、話しかけられていたし、なにかしゃべり込んでいた。


このアメリカの人達は、どこからどのようにしてここ市之原まで
来られたのかも知らないし、乗って来たジープなどの車が置いてあるのを
見た記憶もない。
帰りは兄が楚原駅まで四つ車の牛車で送って行った。
自分も兄の横で腰掛けて乗って行った。
牛車の荷台に乗って帰ったのは一部の人達だけであったと思うが
これも風情があっておもしろかったのかも知れない。


※ (五)牛車で桑名へ行く!


☆車輪が四っつあるのを「四つ車」二つを「かち車」と呼んでいた。

もちろん、道路は砂利道であり牛車の車輪の骨組みは木製であったが
外周は金輪がはめ込んであり、音も大きかったし
ガタゴトと小刻みに揺れて、荷台に腰をかけていると尻がかゆくなった。


また、どこの部落も神社の鉦やお寺さんの鐘は戦時中に供出して
無くなっていようだが、この頃になるとぼつぼつと買い求めて復活していた。


神社の行事や神事など宮守は青年団が行っていた。
復員して家に戻っていた兄は、青年団の団長をしていたようで
そんなことから村が新しく買い求めた鉦を兄が引き取りに行った。
自分も朝早く起きて桑名まで兄と一緒に牛車に乗って
付いて行った。
桑名まで一八Kmほどの距離であり、今では車で三〇分程で行けるが
でこぼこ道をに引かれてごとごととどれ程の時間を要したのか・・。
その鉦には昭和二五年と刻印(彫刻)されており、今でも神社でその鉦を見ると
その時のことを思い出す。


※ (六)アメリカのマッチと缶ビール・その一(マッチ)



この松茸狩りで一番印象に残っているのは、マッチと缶ビールである。
アメリカさんが持っていたマッチは、どこでこすっても火が着いた。
不思議でならなかった。
マッチ棒も白くて柔らかかったし、マッチ箱に書いてある字も英語ばかりで
舶来品やなと驚くばかりであった。


その後、アメリカさんが置いていった使いかけのマッチ箱が
家にあり、友達に自慢したものである。

マッチを ()ると怒られるのでただ見るだけであったが、英語で書いてあるマッチ箱と
めずらしいマッチ棒を見るだけで充分に自慢ができた。
ずっと後年になってから日本でも類似のマッチが一時市販されたが、
すぐに姿を消した。
多分、危険であり製造販売が禁止されたのだと思う。
自分の知る限りでは
日本のマッチは大きな桃の絵が描いてある、確か大日本農林産業とか
書いてある大箱の通称:ももマッチがあった。
マッチは貴重であり大事に使っていた。

新しい箱のうちはどこの側面で擦ってもすぐに火が付いたが
箱が古くなって何度か擦っていると面がつるつるになってきており、
箱の隅の方の新しい所を探して擦っていたが何回か擦ってもなかなか
火が着かなかった。


マッチの軸もよく折れたが、短くなっても指先でつまんで
擦っていたので時には指先を火傷することがあった。
風呂やかまど(おくどさん)で追い炊きする時は、火箸で先ず残り火を探してから
残り火が見つかるとその上に燃えやすいものを乗せて、火吹き竹を
使い燃やしていた。無駄にマッチは使うことはなかった。


またこんな時は海軍が捨てた火薬のようなものも使っていた。
終戦になる前の頃は海軍が内陸地へ入っていたようで員弁へも大勢の兵隊さんが
駐屯されていたようだ。
進駐軍の命令か否かはわからないが、
終戦になり軍が使用していた備品や危険物など全てのものを処分された
ようで、その中に火薬の一種と思うが黒い一cm角程の薄い板状の
ものが川(水路)へ捨てられていた。
それを母と二人で拾った記憶がある。(四〜五才の頃?)
この板状のものを、火が消えかかっている、おくどさんの中へ
入れるとボッ・・と青白い光を出して火力が強くなり新しい焚き物に火が付いた。


※ (六の一)(米櫃(こめびつ))は弾薬箱


またこの頃は兵隊さんが使っていた道具や衣類、琺瑯の食器、毛布など、
配給されたものだと思うが、どこの家でもお下がりを使っていた。
自分も服やズボンは兵隊さんの軍服を母が仕立て直してくれたものを
着ていた。


また、いろんな形の弾薬箱もあった。
箱には大きな字で○○式○○砲弾薬箱、砲弾弐個入などと書かれていた。
弾薬箱は丈夫で頑丈に出来ており、我が家では、
昭和三四年の茅葺(かやぶき)きの家から新しい家に建て替えるころまで
長らく米櫃(こめびつ)として使っていた。

◎写真は準備中・・
※ (七)アメリカのマッチと缶ビール・その二(缶ビール)

缶は当時もアルミ缶だったように思う。
ビールにスチール缶は不具合があるのかも知れない。
缶を開ける為の小さな金具があり、対角の二カ所に穴を開けて
飲んでいた。
缶ビールが日本で発売されたのは昭和三〇年代後半ではなかったかと思う。
缶ビールが発売された時、ようやくあの時のアメリカに追いついたのかなぁ。
そんな国と戦争して勝てるはずがないと納得し、アメリカの凄さを
あらためて感じたものである。


コーラーがアメリカから日本に上陸したのもこの頃ではなかったかと思う。
アメリカの飲み物「コカ・コーラ」が日本で発売されたと聞いてはいたが
地方の田舎まではまだまだ販売網が確立されておらず、私が始めてコーラーを
口にしたのは消防団だったか青年団であったか忘れたがその慰安旅行先の
北陸のホテルであった。


部屋の冷蔵庫から始めて見るコーラーのビンを取り出して
どんな旨い飲み物かと部屋に居た者数人が期待して毒味をするように
口に付けたが薬臭くて飲み難くて、
「誰も金を出してまで飲まんでぇ!こんなもん!」
「こんなもの日本では絶対に売れやんわぁ」
感想は誰もが一緒であった。


※ (八)アメリカは凄い・・・!

(以下のことはつい最近になってメーリングリストでお世話になっている方から
教えてもらい知ったことである)
私が試行錯誤で始めて「市之原だより」をアップしたのは八年前ほどになるが
アメリカの某サイトが最初にアップしたページから途中でアップデート
したページとその年月日まで全てを保存し記録してくれている!!

保存しているページは全部で八八億ページとか記載されていた。
「市之原だより」までもが保存されているのであるから
世界中で開設されているHP全てが保存されていると思われる。
情報収集にしてもそのスケールの大きさに驚くばかりであり、
また、アメリカは我々が日々使用している携帯電話等の交信電波も
キャッチしていると聞くし、宇宙衛星からは地球上の我々の日常の行動を
ほとんどリアルタイムで空撮されている。
この映像は自宅のパソコンから自動車はもちろん人影さえも見ることができる。
こうして書いているこの文章もアメリカの某サイトに保存されることになる。
アメリカの悪口は書けなくなるし、大きな声では言えなくなってしまう(笑)
そのようなアメリカの怖さとその情報をオープンにしているアメリカの
おおらかさと心の広さ、豊かさを感じる・・ただ驚くばかりである。


※ (九)おわりに・・・


過日、友人に誘われて数年ぶりに裏山に入った。
ひょっとして松茸が出ているかもと期待して山を登ったが
残念ながら何も出ていなかった。
また、いつかは子供の頃のように松茸がどこにでも出るように
と願っている。

平成一九年一一月 記


※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。

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行の改行位置が不規則に
なります のでお詫びします。

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