okuyan72@yahoo.co.jp
http://homepage1.nifty.com.okuyan/


子供のころのこと (三) "ウナギを捕る、流し針のこと"

@ 明智川と笠田大溜(池)、小溜(池)


 村中を流れる明智川の源流は多度山脈(通称裏山)から始まり
途中で笠田新田溜池の先ず小溜(池)に入り汚れた水やゴミは溜尻の川へ流して
綺麗になった水のみ大溜(池)に入るように設計されている。
(大きな溜め池と小さな溜め池の二つがあるが通称「新田の溜」と呼んでいる)
池の構造と言い、溜め池の水をそれぞれの田圃に平等に分配するために考案された
いなべ市文化財に指定されている「日陰石」と言い、一六〇年も前に
良く考えられたものと思う。
先人の知恵には驚かされるばかりである。
そして溜尻から笠田新田地内を通り員弁川へ合流している。
(冬の田圃に水が要らないときは、明智川の水は小溜の中を素通りしている)
延長5kmほどのこの川が明智川となっている。

A 河川改修工事


この溜池に入るまでのこの明智川で「流し針」と言う仕掛けでウナギを
捕ったものである。
昭和四〇年代〜五〇年代当時に、この明智川もほぼ全域で河川改修が行われて
曲がりくねった川を真っ直ぐにして護岸もコンクリートで固められており、
容易く川へ入ることが出来なくなってしまった。
また、途中数カ所に高い堰堤(えんてい)が作られ、全く魚が上流へ上って行けなくなっている。
※ 左の写真をクリックすると大きな写真になります。

現在は自然環境、生態系などに多少は配慮もされるようになったが、
当時(昭和四〇年代頃)は自然の生態系などに気配りするようなことは眼中に
なかったように思う。

B 「流し針」とは?


話が逸れていったが本題の「流し針」に戻ることにする。
流し針とは、ウナギを捕るための大きめの釣り針に
餌を付けて夕方から朝まで川に流してウナギを捕る獲る仕掛けのことである。
仕掛ける位置は、ウナギが居そうな少し深くなっているところや、
川幅が狭くなって居るところを見つけて、川岸の柳の枝などに針に餌を
取り付けた糸を縛って餌が泳いでいるように
見せかけるのである。
そしてつぐる朝、朝早く起きてウナギが針にかかっているか見にいくのである。
そう容易くウナギが餌にかかることはなかった。

C 餌を捕る


仕掛けは一mほどの長さの丈夫な糸に針を付けてもう一方の糸の端は、
両端に切り込みを入れた長さ一〇cmほどに切ったおなご竹を付けて
(通常は糸をその竹に巻いて終っていた)もう片方に針を付けて、
餌には「どじょう」か大き目のミミズを使っていた。
(ドジョウの方が早く簡単に捕れたため、自分はミミズをあまり使わなかった)
流しを仕掛ける日は、学校から帰るとかばんを放り出してすぐに
餌のドジョウ捕りから始めた。
(バケツに一七杯ほどの風呂水汲みは自分の仕事になっていたので餌を
捕りに行くまでに先に片づけていた)
※風呂水汲みについてもいろいろと愉快な想い出があり、後述しようと思う。
当時、農薬は使わなかったので蛍やタニシは沢山いた。ドジョウも
水田の脇の水路に沢山いたので二〜三日分を一度に捕った日もあった。

C 流し針を仕掛ける


それでも川で流し針を仕掛けていて餌のドジョウが足らなくなると
たいして切れない小刀で一匹を半分に石の上でぎしぎしと切っていた。
ドジョウは元気がいいのと、手で掴むとよく滑るので砂を付けて掴んだり、
川原の石にぶっつけて(叩き付けて)動かなくなってから半分に切って、
針に付けていた。
仕掛ける位置はここがいいと思うところは、他の誰もが大体思いは同じところで
あるため、その場所に集中することが多い、時には他の人のを上げてもめることもあった。
仕掛けた針を上げるときのどきどきするような期待感は、
またなんともいえないものがあった。
めったにかからないからこそ、ウナギがかかっていたときは本当に嬉しかったものだ。
目的のウナギより蟹や亀、大きめの魚(「あかむつ」と言っていた)などの方が
多くかっていた。

D うなぎのおかずで、ご飯を食べる


うなぎを裁くのは両親のどちらかがやっていたと思う。
家族も多かったこともあり一切れあればご飯を三杯ほど食べられた。
うなぎそのものはなかなか食べなくて、うなぎの切り身を汁に浸してご飯に付けて、
汁が付いただけのご飯を食べていた。
ウナギと言えばそれだけでごちそうであった。
一度子供の頃を思い出して流し針を仕掛けてみたいと思うが、餌になるドジョウを
捕るところも今はもう無くなったし、さすがのウナギでも人間が作った
あのコンクリートの高い堰堤を登って来られないだろうし、
実現することはもうないだろうと思う。
残念である!

E 富田からの魚屋さん


当時のご飯のおかずと言えば、畑で採れた野菜類かわらびやいたどりなどの
季節のものや乾燥したニシンなどの保存できるものが主流であった。
また健康食品?として野良仕事などで獲ったマムシを蒸し焼きにして
粉末にしたものを少しずつ飲まされていた。

魚は、月に1度か2度ぐらいと思うが富田の魚屋さんが三技鉄道
で員弁のどこかの駅まで来てそこから丈夫な自転車(運搬車と呼んでいた)で
凸凹道を市之原まで来られていた。
その後こちらの「いなべ」で店を開かれて現在も魚屋さんを営まれているが、
いなべにある魚屋さんの多くはその当時苦労された方のお店が多い。
留守の家でも家族の人数に合わせてか、適当なのか戸棚に魚が入れてあった。
魚の代金は、次回に来られた時のお金のある時か盆か年の暮れのまとめ払いであった。
魚は時々配給もされていたようで、区長さん宅へ母と一緒に魚をもらいに行き、
皿の上に載せて帰る途中で鳶にさらわれたこともあった。

家族の食事は一人一人に膳(箱膳)があり、茶碗や箸はそれぞれ自分が
その膳の中にしまっていた。
食べ終わると茶碗にお茶を入れて、漬け物などで茶碗を洗い
箸も口でなめてから茶碗の中でチャバチャバと洗って(?)いた。
魚を煮ても焼いてもどこも捨てることはしなくて無駄なく食べていた。
母はご飯を頂いた後に骨も茶碗に入れお茶を注いで飲んでいた。
その後、お茶で綺麗になった骨は犬や猫に与えていたものである。
時には、シジミやアサリなどを貰ったりすると身をを食べた後に
その貝殻を粉に砕いて鶏の餌の中に混ぜていた。
そんな餌が良かったのか、の自由に外を飛び回っていたせいもあり殻の厚い卵を
産んでいた。
食料品の買い物にも無駄な袋や包装はなくて
油揚げやコンニャクはわらに通して店から家までぶら下げて帰っていた。
砂糖と塩は天気の良い日が続いた時に買っていた。
雨の日や湿度の高い日は目方が増えるためである。
塩、砂糖に限らず酢なども全て量り売りであった。
夏にお客さんがあるとビール瓶を一〜二本をだけ買いに行ったものである。

F みそ・たまりは自家製


みそ・溜まりは自家製であった。みそや溜まりは作っている家は少なかったように思う。
溜まりの桶は、子供の頃の感覚ではずいぶんと大きかったように思う。
風呂桶ぐらいの大きさだったような気がする。
麹や豆でどろどろとしたものを長い棒の先に板が付いたもので上下が替わるように
毎日かき回していた。
溜まりが欲しいときは、ざるを押さえ込むと溜まりだけがざるの中に入ってくるので
それを茶碗などですくって使っていた。
桶の置き場所はお勝手場の土間の薄暗いところに置いてあった。
明かりも四〇Wの裸電球一個だけであり、必要に応じてあちこちと
電球を移動させていた。
その大きな桶の蓋用に、巾の広い板が数枚並べて蓋にしてあったが、
ホコリや虫、ムカデなどはいつものことであり、
時にはネズミなどもはまっていた。
そんなことは家人の誰もがそれほど気に掛けることはなかったし
今日では衛生が悪いの、賞味期限が切れているなどと喧しいことであるが
賞味期限などの言葉ももちろん無かった。
どんな食べ物でも、口に入れておかしければ食べなかっただけである。
少しぐらいは、おかしく感じても珍しいものや、もったいない気持ちから
誰もが食べていた。

G「ごちそう・おかず(さい)」


冬のおかずの定番は、長く保存ができる「フナみそ」である。
このおかずは、栄養は満点と思うが、見た目はさっぱりとしていないので
今の子供や若者にはあまり好まれないようだ。

我々夫婦も還暦を過ぎて、亡くなったおばあさん伝授の「ふなみそ」を
近年我が家でも家内が作りだした。
その家によって「ふなみそ」の作り方も少しずつ違い、味も違うようである。
一五cmほどのフナをそのまま数匹、骨がくたくたにになるまで煮込み、
大豆やみそを入れてもう一度煮込んだものである。
(鍋の中で熱くなりフナがパタパタと跳ねる音は可哀想であるが仕方がない)
おばあさんの「ふなみそ」は餅米も入れてあったので味ご飯のようになっていた。
大きめのどんぶり鉢に「ふなみそ」が入れてあったが、
ふなの卵の固まりを探しながら
箸でつついて食べていたので、「ふなみそ」がトンネルを掘ったように
なったものである。
卵が見つかった時は嬉しかったもである。

過日も都会の方へ出ている兄に「フナみそ」を送ったら、一度食べてみたいと思って
いたらしく大変に喜こんでいたらしい。
また当時のおかずで一番印象に残っているのは、「ニシン」である。
今日では、ニシンは貴重でありなかなかお目にかかることはないが当時はどの家でも
いつも鍋に炊いてあり毎日のように食べていた。
今、久しぶりに食べると堅くて渋い味がして、昔を思い出させてくれる懐かしい
美味しい食べ物である。
また、ニシンは肥料(しめかす)にもなっていた。(大きなカマスに入れてあった)
数年前に北海道に旅行したときに今は見学施設のみになっており、
現在は使われていない当時のニシンの番屋を見学したが、
当時の活気あふれる様子が充分に伺い知ることができたし、
肥料にまでなるほど漁獲量があったことに納得がいった。

思い出しながら書いていると次から次へといろいろなことが浮かんできて、
ついつい話が逸れてしまう。

H お世話になった上級生


流し針のことに限らず、何事においても自分はいつも上級生と一緒に
遊んでもらった時の方が多かったような気がする。

足手まといや世話がやけることが多かったと思うが、怒られもせずに
本当に良く面倒をみてもらったものだ。
付近に下級生がいなかったこともあるが、自分が下級生の面倒をみた記憶は
殆ど残っていない。
記憶に残っているのは、世話になったこと、面倒を見て貰ったことばかりである。
現在ほど物質面で豊かではなかったが想い出深い良き時代であったように思う。
本当に感謝している。

二〇〇七年・四月記

※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。

※ご覧のプラウザによっては
行の改行位置が不規則に
なります のでお詫びします。

okuyan72@yahoo.co.jp
このページはnetscapeやFirefox
では縦書きで表示されません。
※Script by ako's cyberpage


inserted by FC2 system