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こどものころのこと (二)”桶の風呂”
昭和三〇年前後(小学校四〜六年生のころ)

@ 風呂水はバケツ(桶)で汲んでいた!


当地区に簡易水道が引けたのは昭和二九年一〇月で自分は四年生の時であった。
各戸に量水計は設置されてはいなかったが蛇口は当初一軒に一口と
決められていたし、谷川からの取り水の絶対量が限られていたこともあり、
飲み水以外の風呂水などは井戸水や池の水を汲んで使っていた。
自分の家だけ楽をしようとすることはなくて、どこの家でも同じように
していたのではないかと思う。
風呂水汲みは主に自分の仕事になっていた。
家の北東角に小さな池があったので風呂水はその池から汲んでいた。

井戸から汲む時もあったように思うが、井戸は続けて何度かつるべを降ろすと
水が濁るので上用(食)に使えなくなるし、時間もかかるのであまり使わなかった。
バケツに一五〜六杯で風呂桶に六分目ほどになった。
池は、竹藪のそばにあって大きなケヤキの木が池の横にありその枝が
池の上を覆っていた。
その根っこは、池の縁からも見えていた。
あるとき、夕方から台風が来て、朝起きたらその大きなケヤ木が家と平行して
横たわっていたのには家人の皆が驚いた。
倒れても大きな音もしなかったのか、寝ていて誰も気が付いた者はいなかった。

枝は少し屋根の先に当たり、藁がむしり取られていた。もし、家の上にでも
倒れていたら、昔のくずや(茅葺き)作りの家など押しつぶされていた
であろうと思う。

大きな被害もなく、びっくりするやら、子供達も特に親父たちは
一安心したことであろうと思う。

後日その倒れたケヤキで、餅を撞く臼を2つと杵(おてま)を親戚に器用な
人がいてノミでカンカンとくり抜いて作ってしまった。

学校から帰ってからその池から水汲みをするのであるが、
子供にとって夕方までのこの時間は、貴重な時間であった。
勉強は全くしなかったが、子供同士の遊ぶ約束などしておりそんな時は
大急ぎで水汲みを終えていた。
あわてている時などは前日の残り湯につぎ足していたこともあった。
遠くの井戸まで水汲みに行く家などは、水は貴重であり前日の残り湯を
使うことは蒸し風呂と言ってめずらしいことではなかった。

池にはカエルやイモリ、アメンボ、フナ、川で釣ってきた魚などが入っており
水面には竹やケヤキの葉っぱが浮いていたのでバケツの尻を揺すって
葉っぱを遠のけてから汲んでいた。
夕方の薄暗くなってから汲む時もあり、葉っぱなどはいつも風呂の中に浮い
ていたが時にはカエル、イモリなどが入って居るときもあった。
風呂桶の横に小さな木戸の窓あり、大人が水を汲むときは必要なかったが、
自分が汲むときは外側に踏み台を置いてその上に乗って、
背伸びをしながら桶の中へ水を入れたものである。
バケツの両縁を持って、胸に押し当てて上へ差し上げていたのでいつも
胸は濡れていた。

A 風呂に入る(入浴)


湯が熱くて風呂の中へ入れないときは、うめ(水を足す)てもらわなければ
ならず、大きな声で誰かを呼んでいた。
うめてもらうまで桶の縁に裸で乗っかって待っていた。
冬の雪が積もっているときは、水の替わりに雪を入れもらったりもした。
風呂に入りながら雪を食べていたのも懐かしい想い出の一つである。
桶は木の板で作られているが底は釜で熱いので:げす板:と言う中蓋のような
板がもう一枚浮いていた。
直接は釜の上には熱くて載れないのでその板の上に乗って湯に浸かっていた。
小さな子供は、板の中心に上手く乗れずに難儀したものである。
うかつに板の端に乗ると板が飛び上がってしまうので、両手を広げて手を
それぞれ桶の縁を握り体を空中に浮かしてからそろっと足を板の中心に
載せて慎重にゆっくりと体重を載せて底の方へと沈ませていた。
あるとき、分家している新婚の兄嫁一人が始めて実家に帰ったときに、
兄嫁が風呂場から大きな声で父に尋ねていた。

「中のもう一枚の蓋はどうするのですか?」と、自分はそれを聞いていて
密かに笑ってしまった。
自分らは:げす板:を蓋とは思いもしていなかったから・・

B 母の健康法?


母と一緒に入ると、そんな風呂の湯で母はいつも「うがい」をしていた。
また口からそのまま風呂の中へ戻していた。
子供の自分にも同じように「うがい」をせよとは言われた記憶はない。

なぜ風呂の湯でいつも「うがい」をしていたのか一度聞いてみようと思って
いたが、聞かないうちに母は亡くなってしまった。
風呂水での「うがい」は健康の為には良かったのかも知れない。

なぜなら母は満99歳まで生きたのだから・・・。

自分もその時に母のように、うがいをしていれば今、腰が痛いの、胃の調子が
おかしいのと言わずに済んでいたのかも知れない。

C蒸し風呂・ 体は風呂桶の中で洗う


家族の何人かが入ってから後風呂に入ると風呂の中は汚れて、
手で釜の上を触ると砂などでざらざらしていた。
今、思い浮かべてみるとげす板の上に乗り体を沈めていくと湯が対流して
釜の底に沈んでいる汚れが水と一緒にもこもこと浮き上がってくるので
汚れた水の動きが眼に浮かんでくる・・想像がつく。
40Wの裸電球は少し離れたお勝手場にあるだけで風呂場は薄暗かったから
その汚れは眼で見ることはなかったので良かった。
明るくてハッキリと見えていたら、その当時とは言え気分の良いものでは
なかったと思う。
風呂桶の横に竹で編んだ簀の子のようなところはあったが、
そこは、下着の脱ぎ場であり水を流すようにはなっていなかったので風呂の中で
日本手ぬぐいで体を擦っていた。
石けんなど付けて洗った記憶はない。
(四角い大きな洗濯石鹸はあったが化粧石鹸は我が家では見たことがなかった)
その頃の子供は2〜3日は風呂へ入らなかったり、
湯に浸かるだけでさほど洗いもしなかったような気がする。

蒸し風呂と言って前日に入った風呂の湯に少なくなった分だけ水を足して
沸かしていた。
多くの家が、水を遠くの井戸まで汲みに行かなければならなかったのと、
一つの井戸を何軒かで使用しており、自由に水を汲むことが出来ない
事情もあった。
毎日の上の水を汲みに行くだけでも大変な仕事であったから
(飲料水=上(かみ)の水・風呂水など=下(しも)の水と呼んでいた)
蒸し風呂にするのは当たり前のようでもあった。
幸いにも我が家には、池があったからほとんど毎日水は換えていたが
時には蒸し風呂にすることもあり風呂に入ると、ぷーんとした嫌な匂いがした。
その頃の子供は、首筋や頭髪の間には垢が;こべりつく;ついていた子や;
できもの;が出来た子が多くいた。
自分も大きな;できもの;が出来て、今でもその蹟が残っている。

D 風呂があったところ


玄関(くぐり戸)を入るとすぐ右側に、まや(牛屋)(馬屋)があり、
友達の家に遊びに行った時には、牛が;まや;の奥の方に居るのを見届けてから
入って行ったものである。
(ねばねばの口でねぶられたり、着ている物を咬まれたりしたものである)
殆どの家では座敷から庭(土間)をはさんで、その;まや;の奥(北側)に
風呂があった。
女性(娘さん)が風呂に入って居るときに、お客があると風呂から
出られなくなったようである。
たいした用事もないのに、そんなことを目当てに家に入り込んで話し込む、
不届き者もいたようである。

E 風呂桶の仕様


桶風呂の仕様は、底は鋳物製で皿を伏せたような真ん中が少し高くなっていた。
周囲は桶の板が入るように少し溝のようになっていた。
釜と桶の隙間は水が漏らないように、太めの荒縄を込めていた。
その縄を込める作業は、天気の良い日に庭にむしろを敷いてその上で
父とよく桶の中入って何度かやった記憶がある。
溝の巾より少し太い縄を湿らして、米ぬかをまぶしながら、
樫の木かケヤキの堅い木で作ったくさびのようなものを当てて木槌で少しずつ
コンコンと縄を詰め込んでいた。
この縄込めを手を抜いて、いい加減にすると水が漏れるので、
時間をかけて丁寧に行っていた。

F 桶やさんが来た


桶やさんが、数年に一回か年に一回かわからないが、
桶の修理に各家を順番に廻って来られた。
タイヤの太い運搬車(自転車)に道具箱と桶の輪にする細く割って丸めた竹を、
自転車の横に付けて自転車を押しながら移動されていた。

庭(かど)にムシロを2枚ほど敷いて、その上で竹を削ったり、板を削ったり
されていた。

桶の種類や形は、それぞれ入れる物に合わせて違っていた。
風呂桶の他に櫃(ひつ)や水桶、肥桶(便所の人糞を入れる)、酌、たまり、
味噌入れなど、入れものは、殆ど桶で出来ており、桶屋さんが作っていた。

桶やさんは前の家での修理は、最初にご飯を入れる櫃から修理を始めて
最後に肥桶の修理で終わっていた。
次の家でも同じ事の繰り返しである。仕方のないことであるが・・・。

数年前の旅行で温泉旅館に泊まった時、部屋の露天風呂が桶で作られていた
ことがあったが、このような高級旅館に一生の内で、そう何回も泊まれる機会
は巡ってこない。
と、すると当時は毎日が高級旅館で宿泊していたようなものなのか(笑)!

G 風呂を焚く(沸かす) ・ まむしの蒸し焼き


水を入れるのは桶の上から入れるが、水を抜くのは、桶と釜の際の
栓(みと:と言っていた)から抜いていた。
この栓がしっかりしていないと水が徐々に漏れてしまい、空っぽの風呂を
焚くことになり、桶や詰め込んである縄が焦げてしまうのである。
自分も一度、水が徐々に抜けて少しになっていたのを知らずに焚いて
湯が沸騰したようになったこともあった。
風呂の焚き物は燃えやすい良い焚き物を使わなかったので最初は燃えつくまでは
少し苦労もあり煙たいこともあるが、そのあとは、籾殻などを被せてぽかぽかと
暖かくて冬などは焚き口の前でよく居眠りをしたものである。
また母は、野良仕事などで掴ました「まむし」を、昔に使っていた
「酒とっくり」に入れて、そのとっくりを壁土で包んで風呂を炊いている
火の中へ入れ蒸し焼きにしていた。
その「まむし」の粉を少しずつ夕飯時に滋養剤として飲まされていた。
時々、子供が寝てから大人が風呂に入るとき風呂の湯が冷めて
追い炊きしたときなどは家の中全体に、納戸の奥まで煙が充満して
蚊帳の中でしばらくは、大粒の涙が次から次へと出てきた。
それ以後はもうどれだけ煙っても不思議と涙は出なかった。

遠くから風呂焚きをしている時のくずや(茅葺き)の家を眺めると屋根から煙が
もうもうと排出しており家の構造を知らない人が、その煙を見て家が
燃えているのだと勘違いされたこともあったようだ。
空焚きもしたことがあり、桶と縄が焦げて煙が出てきたのには心配やら
怒られる不安で気持ちがどきどきしたものである。
親から教えられていたのは、空焚きしても直ぐに水を入れたらあかん!と
言われていた。
熱く焼けた釜に水をかけると釜が割れるし火傷すると教えられていた。
簡単な修理は父が行っていた。
焦げた桶尻をカンナで削り落として釜と摺り合わせてから、
縄を込めなければならなかったし、桶の板は湿ったり乾いたりするためか、
以外と早く腐り桶の真ん中当たりでよく穴が空いたので、
別の新しい板を空いた穴の分だけの大きさに切って埋め込んで水の漏れを
塞がなければならなかった。

H もらい風呂(風呂を借りる)


その風呂桶の修理が出来るまで家族は風呂に入れなかった。
どうしても風呂に入りたい時は、親戚や近所の家へ行っていた。
現在では隣近所で風呂を借りる(いれてもらう)ことはなくなったが、
当時は時々風呂を借りる(もらい風呂)ことはめずらしいことではなく
普通のことであった。
そのころ 分校の宿直を本校の先生も含めて男の先生で交代でされていたが、
分校には風呂がなかったので
我が家の風呂に入りに来る先生が二人おられた。
夏の寒くない時などは、数人の子供が先生が宿直されている分校へ遊びに行き、
星座を教えてもらったり、戦争時の話など聞いていた。
先生と一緒に寝ることもあった。
子供たちは寝冷えをしないように、座布団をバンドで巻いて寝ていた。
その時の先生にも授業を受け持ってもらっていたが、通信簿の中で一番上の
「+2」が一つだけあったがそれはその先生が付けてくれた唯一の
「+2」であった。

I 残り湯も無駄にしなかった!


また話が横道へ逸れてしまったが、井戸水が豊富でない(たしない)家では
風呂から抜いた水を外の瓶に貯めて置き、畑の野菜などに掛けていた。
また、「おしっこ」専用の桶も玄関の横に置いてある家もあった。
便所の大きい方はもちろん大事な肥やしであった。
牛が、荷車を引きながら道で排出する「うんち」も大事な肥やしであり、
いつの間にか誰かが拾って無くなっていた。
今、思い出してみると水一滴でも全てにおいて無駄なく大事に使っていた
ことが判る。

J 生活様式が変わる


その後、五右衛門風呂が主流になり、風呂の焚き口もおくどさん型の
自家製手作りから左官職人さんを頼み作ってもらったかまどや 文化釜戸とかの出来映えの釜戸などが多くなっていった。
これまで、もうもうと煙を出していた、くずや(茅葺き)の屋根もトタンを
被せた屋根へと替わり煙も出なくなっていった。

またその後、徐々に瓦屋根の家へと建て替わっていったが、
くずやの家に使われていた木材、竹材、建具など永年に渡ってすすにさびれて
いい艶をしており今日まで保存し残して置けば値打ちが出て宝の山であったにと
残念である。
殆どは、かまどや風呂の焚き物(燃料)に使われ燃やされていってしまった。
農作業の動力も牛車から耕耘機と荷車兼用のテーラーなるものに替わっていった。
LPガス、テレビが普及し、食生活も自給自足がちな形から店で購入する
洋風的な食品を食べるようになってきた。
このようにして三〇年代後半から生活様式は駆け足で変化し便利になっていった。
便利さと引き替えに、かけがえのない目に見えない大事なものなどが
失われていったように思えてならない。

K おわりに、


風呂の構造も知らずに水を入れるだけ、ボタンを押すだけの現在、
今と違って昔は桶風呂の一つにしても
当時の大人も子供も知恵を出し合って身の回りにある材料を使って修理する。
全て自然との共有の中で生まれる生活の知恵であった。

水一滴も粗末にすることなく、風呂の残水も肥料にと全てが生活と
密着していた。
その生活の知恵は一人では生まれてこない、隣同士から村中みんなに
輪が広がり、村中が一つになって懸命に生活していたことが伺える。
自然のうちに、お互いが結びつき教え合い助け合う社会であった。

現在の社会を考えてみると、水は水道、ボタン一つの点火、食卓に上がるものも
スーパーでのそう菜と、生活に苦労もなければ考える必要もなく素材もない、
それでいて要求することばかり強くなり、文化的になって却って人と人との結び
つきもない社会を作っている。

さぞ先人達はあの世で嘆いておられるに違いない。
新しい文化とは、自然や心の破壊からしか生まれないものなのか!

もう今の生活で充分と思うし!
もうこれ以上に便利にならなくても良いと思うし!
もうこれ以上に自然を破壊しないでほしいと思うし!
このように思うのも歳の性とも思うし!

今、こうしてこの文章を書いているのも筆ではない!
現実の流れに身を任せ甘えて、気持ちと行動が伴わない情けない自分がここにいる!

平成一九年四月:記


※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。

※ご覧のプラウザによっては
行の改行位置が不規則に
なります のでお詫びします。

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