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子供のころのこと (四) ”村に水道が!”

市之原簡易水道敷設から町水道へ移管するまで、


昭和三十年前後(小学校四年生のころ)



当地区に簡易水道が敷設されたのは昭和二十九年十月で自分は四年生の時であった。
平成元年四月に町水道に移管するまで三十数年間も恩恵を受けたのである。
このような山村に水道があるのは当時、三重県でも二番目であると聞かされていた。

@ 簡易水道設置の必要性生れる


水道を敷設しようと言う案が出たのは、一部の地域で慢性的な水不足と、
部落で伝染病「赤痢」が発生したことなどが大きな要因であったようだ。
「赤痢」が発生した時、部落へ通じる道は部落の入り口で全て遮断された。
部落内では、保健所、役場の方と思うがマスクと白い帽子、白い服を着た大勢の
方が消毒作業をされていたのを覚えている。
たしか子供の犠牲者も出たのではないかと記憶している。
部落内の一部の地域では夏になると井戸水が枯れることもあり、
いつも夕方になると豊富に水が出る家の井戸までバケツや桶を天秤棒で担いで
もらい水をされていた。
そんな要因、苦労があって部落の長老の皆さんが敷設を決意されたのである。
(ちなみに員弁町の水道が一部給水を開始したのは市之原より十年余り遅れて
昭和四十年四月である)

A 敷設に当たって発起人の苦労


水道が完成するまでの苦労、労力は大変であったとろうと思う。
夏になると井戸が涸れる家は、早く水道の水がほしいであろうし、
夏でも綺麗な水がどんどん湧き出る井戸がある家は高い工事代金を
支払いたくないだろうし、十人十色で部落全体が敷設に合意するまでの
話合いだけでも大変であったろうと思う。
これを進めるについては部落の有力者T氏の尽力が大きかったと父から聞いている。

B 家庭状況


どうしても負担金が準備できない家庭や、井戸水が涸れることがない家庭は
仲間には入らなかった。
山村の部落であり、これまでも隣、近所や部落内でもなにかと助け合って
生きて来たであろうにこの簡易水道の負担金は大金であり自分の家の
負担金支払いだけでどの家庭も精一杯で、
とてもよその分まで助けたり、貸したりする余裕がなかったようであった。
簡易水道敷設の発起人の一人でもある父は、部落の家庭全部が揃って水道の
恩恵を受けることが出来るように、
なにか良い方策はないものかと随分と悩んでいた。
その様子が子供心にも読みとれた。
(数年後にはいずれの家庭も加入された。)

C 工事が始まる・高額な工事代金


(技師以下数名の配管工は、お寺本堂の側室にて寝泊まりし、炊事は村から女子一名とある)
水道管や資材の購入代金も大変な額であったろうし、技術的なことは
業者の方にまかせていたが、裏山の谷川から部落の一番高いところの
タンクまでの本管の埋設や貯水タンクの設置とタンクからそれぞれの家庭までの
管の埋設など全て手作業であった。
当時、現金収入と言えば米や割木を売った時、牛の買い換えしたときの差額が
入った時などであった。
また砂防工事や亜炭堀の日雇い代金などがあったと思う。
現在のように会社勤めをしている人は、殆どいなかった。定期的な収入も無かったが、
日常に置いては自給自足のような生活であり、お金をあまり必要ともしなかった。
そんな生活の中で、貯金など殆ど無かったろうし一時的に大金を出すのは、
どの家庭でも大変であったと思う。
余談であるが子供の現金収入と言えば茶の実や竹の皮拾い、おなご竹切り、
割木を山からの賃出などでお金を稼いでいた。稼いだお金は、
あめ玉なども買ったが殆どは親に渡したり、学校の入り用に使っていた。
(茶の実一升:十二円・竹の皮の値段は記憶にないが、魚を獲る「たもの柄」になる
おなご竹切りは値段が良かった。
主に中学生がやっていた割木を山から出してくる賃出しは、
距離にもよるが一把二円五十銭ほどであった)
現在の子供は塾やらスポーツと忙しいのでそんな時間はないし、
子供がお金を稼げるような社会状勢でもない。
当時、小学校の修学旅行は伊勢、二見浦への一泊旅行であった。
費用は五百円と米が確か・・三合であった。
自分の修学旅行は昭和三十一年であったがその代金を学校へ収める最終の期限の
日の朝、登校するのに同級生の家へ誘いに寄った時に、その同級生の子が泣いていた。
旅行代金の五百円が貰えなかったのである。
その子が鞄を肩に掛けて家の外から、家の中に居る父親に向かって泣きながら
何度も頼んでいたが、父親は大きな声で
「ないものはしょうないやろぉ!」と言っていた。
子供が楽しみにしていた記念の修学旅行!その旅行に行けない悔しさ寂しさ、
父親もまた親として子供に旅行に行かせてやれないすまない気持ちがあったろうし、
子供以上にさぞ辛かったことであろうと思う。
その時の二人のやりとりの声がなぜか今でもはっきりと聞こえてくる。
その日にその時に、他に使う予定のお金さえあれば、なにより優先して子供の
願いを叶えられたであろうと思う。
多くの家庭で、その日暮らしのようなそんな時代であった。
負担金は分割支払いではあるが約3萬円と言うお金であり、
いかに大金であったかが伺えるのである。
当時の水道組合の日誌、帳簿には本管の総工事金額は百八十萬円・人夫賃は
一日三百円と記されている。

組合加入者は皆平等に工事を請け負った業者に、人夫賃を貰って雇われると言う
方法をとっていた。

D 簡易水道完成祝い(昭和二九年一〇月三日)


簡易水道完成のお祝いは、一部の工事を残し、お寺さんの境内を借りて催行された。
確かな記憶ではないが村の多くの人が出てそれはそれは盛大であった。
(日誌には来賓に桑名保健所長、員弁警察署長、町長の祝辞と組合長の答辞とある。
外、多数の議員を招待と記載されている)
子供の頃からこれまでに村のお祝い事を幾つも見てきたが、
この時ほど村人が喜び、楽しげな姿は見たことがない。
境内には、幾つかの屋台が出ていたし、演芸の舞台も設置されて漫才や手品などが
披露されていた。
子供たちも屋台のお店でおもちゃや、飴玉などを買ってもらった。
大人も充分な振舞い酒があり、酒で酔いつぶれる人や、戻している人なども見かけたものである。
その日は村中がお祝い気分で一色だったように思う。

E 水道発足後の問題


(水道組合が発足して数年後、いろいろと事情が生じて組合が二つに分割して
その後町水道へ移管する平成元年の解散時まで続いた)
しかし施設の維持管理や水の確保には両組合ともいろいろと苦労が伴った。
発足時は蛇口は一軒に一つと決められており、節水には誰もが気配りをしていた。
我が家でも風呂水は池や井戸からバケツで汲んでいた。
それでも日照りで谷川の水が涸れた年や水源地から貯水タンクまでの途中の
山崩れなどで水道管が切断されたりした時や、昼夜を問わず一日置きぐらいに
谷川の水源地のゴミを取ったりして、ちゃんと異常なく送水されているかを
確認しに行かなければならなかった。
役員は本当にご苦労で大変であった。
昭和五〇年頃から、社会が豊かになり生活様式の変化に伴って蛇口の数も増えてきた。
だんだんと水の使用料も多くなり、いくら節水を呼びかけても、地区の水源地から
の水だけでは使用料をカバー出来なくなり、絶対的な水不足に陥ってきた。
そこで隣村の谷から水を頂くようにお願せざるを得なくなった。
水利権も漁業権と同様に難しい厳しいものがあるが、隣村の谷は奥深くて水が
豊富であったので事情を理解していただき、長いホースと林道の側溝を利用し、
また溝も新たに掘って谷から谷へと貰い水をしていた。
その年によってはタンクローリーを借りて貯水タンクへ補給していたこともあった。
しかし、その場しのぎ的な対策では対応出来なくなってきた。
水質検査でも厳しい数値が出るようになり、たびたび保健所や役場から指摘を
受けるようになってきていた。
水が汚染されたのは、水源地の奥へ道路が施設されて、山菜採りの人などが
食べた弁当などのごみをを多く見かけるようになった。
その頃より猿が増えてきたのも原因ではないかと推測する意見もあった。
衛生面においてもここには書きたくないようなことも、見たり、
耳にしたりするようになってきた。

F 組合員となる


自分が所帯を持ったのが、昭和四十一年、二十三歳の時であった。
その時に水道組合に分家として加入させてもらった。

(規約には分家の加入は五千円とし、新規加入者は六万円とする、と記されている)
家を建てた所が貯水タンクと高さがほぼ同じくらいの位置であり、
既設の水道管に繋ぐには途中に2ヶ所の道路横断ヶ所と高低差がある、150mほどの
距離があった。

この管の埋設工事は、父や兄と仕事の合間にやっていた。
水道管の埋設の深さは、30cm位で、管の接続は、今の様に接続用の部品は
使わずに、片方の管をトーチランプであぶって柔らかくして広げ糊を付けて
冷めないうちに素早く差し込んで繋いでいた。
その接続した部分から、よく水漏れがありいつも点検して修理をしていた。
朝夕のどこの家も水を多く使う時になると決まって水が出なくなっていた。
解決策として家の横で水道管に深井戸用のポンプを付けて水を汲み上げるように
してはいたが管の中に水が無ければ、いくらポンプでも水を吸い上げて
くることは出来ず、余り効果はなかった。

他の家が水を使わない時間帯に汲み置きして水の出ない時の為にいつも準備していた。
この時から約二十年間は、水の有り難さ・大切さをしみじみと味わった時期であった。

G 組合員の気持ちの変化・・


特に他の地域からこちらへ嫁いでこられた若嫁さんたちが供給が不安定な、
衛生的にも心配な簡易水道に不満の声を聞くようになってきた。
もうこのままにはしておけない事態になってきたと・・だんだんとそう感じる者が
増えてきた。
昭和六十二年ごろのことである。

H 昭和六十三年組合長となる


そんな折りに自分に大役の組合長をせよと聞かされ、断り切れず引き受けることになった。
組合員全員総会を持ち、現在の水の状況を説明して町へ移管の方向で
決議していただいた。
これも縁なのか定めなのか、父たち先人が苦労して敷設、設立した組合を
解散する役目を負うことになったのである。
大変だとは思わなかったが、一年間ほどは毎晩のように各組、個人宅や
役場との調整などで家を空けていた。

加入金は多少は他の地域より高額になるとは想像し理解していたが、
予想もしなかった金額の提示に、区長、議員さんにも助言を願いして共に、
町長、担当者と度々協議し受益負担は全町民平等であるべきとの見解から交渉したが、
町水道への加入金は市之原地区は町の中心部より離れており通常の金額では、 他の地域への負担が大きくなるとの理由からどうしても理解が得られなかった。

その差額が想像以上に大きかったので、その差額についての地区の皆さんの
理解を得るのが、苦労と言えば苦労だったかも知れない。
建設的なやむを得ない解散とは言え先人に対して申し訳ないような
複雑な気持ちであった。

I 町水道へ移管する


そして平成元年四月に町水道に切り替え、一戸当たりの町水道への
加入金四十万円(通常は三万六千円)を支払い、移管を完了し、
同一〇月にこれまでの簡易水道組合の財産、施設の移管、売却等、全てを処分し、
市之原簡易水道組合を解散したのである。

移管後の一月分の使用料金は、これまでの年間の維持管理費とほぼ同額になった。
個々の家庭によってはより多額になった。
この市之原の地で員弁川(藤原)の水を飲ませて戴くことになろうとは、
一昔前には想像も出来なかったことである。

J 父の死と末期の水


裏山の水源跡地には、先人に感謝の意を込めて石造の記念碑を
役員(四人)の手で建立した。
その作業中に父が亡くなったと連絡を頂いた。
看とってくれた姉が「末期の水」と言うか、新しい水道の水で唇、喉を潤したと聞いた。
父もきっと喜び安心してくれたことと信じている。

K おわりに、


水は私たちが生活を営む上で不可欠なものであり今後も
先人の苦労を思い忘れることなく、無駄なく大切に使いたいものである。

平成十九年四月:記


※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。

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