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子供のころのこと (五)  ”山の神”

山の神神事について

@ 起源は・・


この行事は、いつごろからどんな目的で始まったのか!その歴史的な背景は解らないが
おそらく豊年・家内安全・火の用心・などの祈願からではないかと思う。
町内では上笠田・笠田新田・市之原地区がこの行事を行っていたように記憶しているが
他の地区でも同様のことを行っていたのかは、まだ調べていない。

A 山の神・・とは?


私の子供の頃(昭和二〇年代)の懐かしい行事や出来事の思い出はいろいろあるが
その中でも一番印象に残っているのが「山の神」である。

長さ七〜八で枝を払った三本の生木(雑木)の先端を束ねてバランス良く
円錐形に建てその三本骨組みの中に竹が倒れ込まないように数段に縄を
張り巡らしていた。それを「がっしょう」と呼んでいた。
数百本(約五〇〇本)の竹の枝に七夕の飾りのように、
沢山の「わら」を括り付けたものをその「がっしょう」に
立て掛けて(もたらかして)一気に燃やすのである。
このようなよく似た行事は全国の何処の地方でもあるようで
「どんど焼き」とかで今でも時々テレビ等で拝見することがある。


この「山の神」の行事が突如禁止となってしまった。
「山の神」の行事が出来なくなったのは、子供がこの行事を真似て火遊びをし、
家屋を全焼したことによる理由で町内の各部落での「山の神」が禁止されたのである。
私が小学校五年生のとき(昭和二九年頃)であったように記憶している。

B 誰がやっていたの?


「山の神」に関わる全ての作業は、小学校一年生から中学二年生までの
男の子供たちだけで行っていた。

大人に手伝ってもらった記憶はない。
この文を書くにあたり年輩の方にこの事を尋ねたが、
全て子供だけでやっていたとのことであった。
骨折した子供もあったが、保険などなかったし責任転嫁などはしなかった。
近年になって責任の云々を喧しいが、それまでは、なにがあっても個人の責任
と皆が納得していた。
自分は今日でも行事や催し事の事故、怪我はそれぞれの個人の責任で良いと思って いる。
最近ほど責任の所在を追求すると、行事の立案や発起人がいなくなり、
どんなことも伸び伸びと出来なくなってしまう。

作業の工程や段取りは中学二年生の男子が行っていた。
なぜ三年生でなくて二年生なのかと思うかも知れないが、
三年生はぼつぼつと就職が決まり冬休みに入ると休みの期間、先方へ住み込みで
見習いに行く子などがあったから、落ち着いて勉強?遊びが出来る二年生が
おこなっていたのではないかと思う。
(進学する子や家から通勤で就職する子は、殆ど皆無であったと思う)
当時の生徒数は、一年生から中学二年生まで女子を省いて四〇〜五〇名ほどで
あったと思う。

この神事は現在であれば、子供だけで執り行うなど、とても容認されない大変に
危険な迫力のある行事であった。
私が今当時を振り返ってみても、あれだけの大変な行事で危険な作業を
行っていたことを現在の世情や感覚では、どうしても信じられない。
火を燃やすことが主体の凄い行事であった。
行事の前に子供たちが揃って神社にお参りしたり、祢宜さんにお払いを受けて
清めてもらったりしたような覚えもない。

C 準備する・・


「山の神」の最大のクライマックスは一二月七日の夕方から宵にかけて始まる。
その日に合わせて二週間ほど前から子供たちは、
学校から帰るとカバンを放り出して神社の境内に集まり主に地区内から
竹や藁の調達と、藁を竹の枝に付ける作業をしていた。
また時には学校から家に帰らずに直接に神社へ行っていた。

神社で中学二年生の命令、指示を受けて各家庭へ、竹・わらなどをもらいに
二人一組で走り回って神社へ集めていた。
藁はどのようにして集めていたのかは、残念ながら何故か記憶にない。
一輪車やリヤカーなどはまだその頃は無かったので背負って運んでいたのだと思う。
上級生が集めていたのか、大人が神社境内までそれぞれ運んでくれたのかもしれない。
竹は株から切った枝付きの一本の竹であるが、個々の家によって家人が
切ってくれる時と子ども達が自分で切ることもあった。

まだ当時はどこの家も脱穀したモミ(米)を庭(かど)でむしろを敷いて
天日乾しをしており、その僅かに空いている通り道を、
むしろにさわらないように気を遣いながら、
竹を引きずって運んでいた。

もみの中に石が飛び入る為によく叱られたものである。

(この頃の精米機は石を省く機能はまだ無かったので米をかす(研ぐ)時に
混じっている石を捜し出すのが当たり前であった。
しかし、白い石は見つけることが難しくてご飯を食べていると
「ガシィ」とよく石を咬んだものである)

当時はまだ、舗装道路などは何処にも無くて砂利道ばかりであった。
竹の株から少し上の方を持って、その砂利道を勢いよくを引きずると
乾ききった道路から、もうもうと砂ホコリが舞い上がった。
その砂煙が子供とっては、快感でもあった。

部落内の九〇戸ほどの家からこのようにして集めた竹は全部で約四〇〇本ほどに
なった。
他に区有の竹林でも一〇〇本ほど切っていた。
数軒の非農家や竹藪のない家庭からは、お金を頂いていた。
金額は多くても五〇円ぐらいまでではなかったかと思うが
自分は集金するような身分ではなかったので良くは解らない。

すべての作業が終わってからそのお金で購入した習字紙を一人に三〜五枚ほど
リーダーの中学生から貰っていた。
習字紙の値段は一円で三枚ではなかったかと思う。
(終戦後まもなくの頃で全ての物資が乏しかった時代であった)
(当時は、習字の練習は新聞紙ばかりであり習字紙を使ったのは最後の
一枚を書く時だけであった。この紙を清書紙と言っていた)
(昭和一二〜三年頃に兄の同級生達が書いた習字や文集を見たが、どちらも上質の紙が
使われていたのには少し驚いた。戦争前で物資が豊富であったことが良くわかった。)
新聞紙で思い出したが、便所の紙も新聞紙を小さく切ったものを使っていた。
そしてまだ新聞を取っていない家庭もあり、その家の便所は、
縄をなう(作る)前に稲草を柔らかくする作業があるが、その時に出来る
柔らかい藁(すくた・すくべ・と言っていた)を使っていた。
いつのまにか話が逸れてしまったが、話を戻すことにする。
そうして集めた竹にわらを括るのですが、その作業にもノルマが課せられいた。
藁は中学生が管理しており最初に貰った藁を付け終わると次の藁を貰いに行っていた。
リーダーの中学生が、社務所から見ており、また作業の進行状況を見廻って
遊んでいる者や怠けている者・手抜き作業をしている者を監督していた。
上級生、中学生の命令は絶対的であったが、それでも隠れていたずらをするときもあった。

この作業が終わると神社から三〇〇mほど離れている明智川の河川敷まで
五〇〇本ほどの竹を運び、円錐形に建てた骨組みの柱に順次もたらかしていった。
河川敷へ渡るのに土橋を二箇所に架けていた。
「山の神」の行事で渡るだけの為に両岸から石などで川巾を狭くして、
丸太などを渡しその上に木の枝を置き、さらに古いむしろなどを敷いて
その上に土を敷き詰めた構造であり
橋の巾は五〇cmぐらいで長さは二mほどであった。

日程の都合からかこの作業を日没後の暗くなってからも一二月の冷たい川に
入って行っていた記憶がある。
適当な本数をもたらかしたところで、周りに数本の梯子をかけて登り
上下二カ所ほどに縄で鉢巻きをしてばらついて竹が転けて来ないようにいた。
その上に再度竹をもたらかしては、同じ事を数回繰り返し円錐の形に仕上げていった。
この河川敷で一二月七日の夜に「山の神」・・その竹に火を付けるのである。

D 一二月七日 山の神


子供たちは、また夫々に「タイマツ」とタイマツから落ちた燃え殻を消す為のに
「タタキ」と言うものも作っていた。


タイマツは、長さ一〜二mぐらいで太さは直径で三〇cm〜四〇cmぐらいだったかと思う。
周囲は竹を五cmぐらいの巾に割ったもので包み中味はよく燃えそうな枯れた小枝や
杉葉で作っていた。
自分はタイマツとタタキは、父親に手伝って作ってもらっていた。

タイマツに火を付けるのは、夕方臼暗くなってからで出発地は
それぞれの子供の家からだったような気もするが神社からだったかも知れない。
どちらであったのか確かな記憶はない。
「タイマツ」を左右に振る時に、火の粉が頭や顔にかかるのを防ぐのに、子供たちは
日本手拭で、皆頬かむりをしていた。

火の着いたタイマツを縄で肩から吊って左右に振り回しながら部落の中を
練り歩いて山の神が行われる河川敷まで行進するのである。
高学年の体の大きな子達は、左右に格好良く振り回すが、自分たち低学年の子達は
タイマツを吊り下げているのが精一杯であったが、
同じように格好良く見てもらいたいので元気よく左右に振るとその円心力の勢いで
体も一緒に回転したり、タイマツを抱え込んでひょろついたり、倒れたりしていた。

タタキは、選りすぐったわらの芯だけを細縄で硬く縛ったものでちょうど
野球のバットのグリップエンドのところを細く握れるようにして、
そこを中心に回転させて降り落ちた火の粉や燃えかす等を叩き消すのに
使っていた。

叩くと「パーン・パーン」と気持ちの良い音がした。
結果的には逆に火の粉が飛び散り危険であった(笑)


河川敷へ着くと、火を付ける時間が来るまでに青年団が早く燃やそうとするのを
防がなくてはならなかった。


ちょうど竹を組んだ所から少し離れた高い位置に田んぼがありそこから、
青年団の者が脱穀の終わった稲束に火を付けて、
組んである竹をめがけて早く燃やそうと投げつけていたが、
本心からではなくて神事を盛り上げる為のセレモニーではあったが、
消す側の「ドジョウすくい」の主人公のような姿をした多くの子ども達は
燃え移らないようにと真剣そのものであった。

その小高い田んぼから次から次へと火が付いて飛んでくる稲束を
時間になるまでは絶対に燃やすまいと足で踏んだり「タタキ」で叩いて消したり
体や頭に降りかかった火の粉を払ったりと目まぐるしく動いていた。


決められた時間がくると周りから火を付けて、 七夕の飾りのように藁が付いた五〇〇本の竹をいっきに燃やした。

それは大きな火柱となり竹の弾く音!火の粉!竹の葉っぱ!と共に煙が高く舞い上がり、
熱くて少し離れた所に逃れて見守る子どもたちや、それまでは暗くて声は
聞こえていても姿がハッキリと見えなかった沢山の見物に来てくれた村人の姿を、
火柱の向こう側に、火の粉や舞い上がる煙の中のあちらこちらに赤々と
昼間のように浮かび上がらせていた。
冬の澄みきった夜空を赤く染めて、燃えて黒くなった無数の竹の葉っぱが
天高く舞い上がり壮大な凄い!光景であった。
この様子をカメラに納めている人が、誰か居なかったのか尋ねてみようと思うが
なにしろ、この当時にカメラを持っている人など居なかったと思う。

このような危険な行事を、子供たちだけで行っていたことに現在の感覚では、
ちょっと考えられないし、信じてもらえないと思う。
(部落の多くの大人たちが見物を兼ねて、この危険な行事を見守っていてくれたのだと思う)


燃えたあとの火の始末は、どのようにしていたのか、自分の記憶にはない。
多分、上級生か青年団や消防団の方が水を撒いて消していたのか
朝まで見張りをしていてくれたのかは知らない。

E 行事が終わって、(一二月八日)


翌日、道に落ちたタイマツなどの燃えカスやタイマツから落ちた小枝、竹などの
後片付けや掃除は分校の三・四年生で授業の一限目から行っていた。


当時は、学校の湯茶のお湯を沸かすのは、四年生の女子が薪で釜土で沸かしており、
掃除と薪を集めるのを兼ねていた。

F 終わりに、


この神事は今の時代では、とても出来ない行事であろうかと思う。
このような大変に危険な行事を子供たちだけで行っていたことに、
今振り返ってみてもとても信じられないことであり懐かしく思い出される。


これを行った場所も、河川改修されて現在ではその面影すらなくなっている。
準備の作業をしていた神社も遷宮されており、
その跡地は整備されて「農村公園」にと生まれ変わっている。
準備作業のときに竹をもたらかしていた境内の大きな楠の木だけが
当時の懐かしい記憶を想い出させてくれている。

その大きな楠も環境の変化の為か最近では、枝振りが少なくなって元気がなく
心配していたが近々、元気回復!の手当てをして頂けるようだ。
また元気な勇壮な姿を見せてくれることを願っている。

平成一九年六月三日 記

※最後までお読み下さいまして
ありがとうございました。

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