おもいでのぶんしゅう ☆ なつかしのできごと ★彡 | |
どうぞごゆっくりと・・! |
23/24/25年入学生合同同窓会によせて、水貝先生 |
23/24/25年入学生合同同窓会によせて、奥岡先生 |
市之原分校の思い出、27年度卒業生 |
50年も前の遠い記憶を新たに・西小学校市之原分校の想い出、28年度卒業生 |
木のぬくもり市之原分校、46年度卒業生 |
複式授業、48年度卒業生 |
市之原分校、平成元年度卒業生 |
想い出をありがとう!(管理者:奥岡 巌) |
昭和20年代の 田舎の分校の様子や出来事をまとめてみました。在校していなかった皆さんにも読んでいただければうれしく思います。各文章にはブックマークを付けましたのでご利用ください。BGMも付けてあります。保存またはオフラインでごゆっくりどうぞ。 BGM:omoide.midiは、MIDI湘南BIGーWAVEの橋本さんより頂いた曲です。(現在、鳴らしておりません) |
水貝 悟先生寄稿文 ー思いつくままにー 終戦直後、昭和20年末から朝鮮半島における南北戦争に狩り出され、アメリカ軍の上陸艦艇 Q008に乗り組み21年12月まで米軍の物資輸送のため、九州と朝鮮半島の間を往復しました。途中病気のため下船し、昭和22年に教員になりました。 ○ その当時の授業からー 運動場で体育の授業をしていたとき、「気を付け前ならえ」と大きな声で号令をかけ整列させラジオ体操を始めた・・・・一時限の授業を終わって教員室へ入っていくと、校長先生に呼ばれ、もっと小さな声で優しく「前にならびなさい」と言いなさいと注意されました。 なるほど当時はマッカーサーの伝達文書が玄関の正面に掲げられていて、守らなければならない時代で、号令ひとつにしても気を遣わなければならないのでした。 ○ 分校教育の問題点ー 3年17人、4年19人という自動を一教室に集めての授業に四苦八苦、大変苦労しました。 直接指導している学年はよいのですが、間接指導の他の学年の自習体制を如何ににして身につけさせるかが悩みの種でした。 親から「昔の子は本校へ行ってもよくできたのに、今の子はあんまりかんばしくないではないか」 といわれると、複式学級では努力したことが、全部子供に反映されない必然性は認められていますが、やはり責任を感じるにはいられませんでした。 しかし、本校へ行ったとき、隅っこに小さくなっているのではなく、ものおじしないで、元気に皆と遊び発言したいことは、皆の前できちんといえる子にしようと、分校の教師仲間で励まし合いながら努力し合ったものでした。 ○ 分校の移転 昭和41年、山郷小学校から再度分校に転勤してきました。 みなさんが学んだ下の校舎は、あまりにも古く、昭和34年の伊勢湾台風ではガラス戸が外れ、天井も落ちたほどでした。また、西側の道路が高く雨が降る度に運動場が川のようになる始末でした。 そこで、当時の井後川校長先生となんとかならないものか相談し、現在の高いところへ移転する計画をたてました。町当局へ再三お願いして実現できたのでした。 勿論、区長さん始め役員さんや土地所有者の協力があったからこそです。今までに比べると見晴らしの良い高台で、子供達と一緒に楽しく勉強できたのも私の忘れられない想い出の一つです。 長島ゴルフ・トヨタ車体等の進出に伴い、地域が大きく変貌する中で、市之原区民の意識の変革も大変なものがあるように思います。 そんな中で、祖先から受け継いだ自然と文化遺産は、これからはなお一層大切にし、きちんと守っていかなければならないのではないでしょうか! そして、その中核となってこれからの市之原区を背負っていただくのが、皆さんをおいて外にありません。めざましい経済成長の中で、現代はあまりにも、物質主義にあまりにも走りすぎているのではないでしょうか!皆さんと共に学んだ豊かな人間性とは何か・・今一度考え直してみる時期にきているように思えるのです。 思いつくままに、感じたことを書きました。しかも理屈っぽくなり申し訳ありません。 (平成4年11月に昭和23・24・25年分校入学生同窓会にあたり、「分校の想い出」文集に寄稿していただいたものを原文のまま掲載させていただきました。) |
奥岡 まさ子先生寄稿文 皆さんこんにちは 今年もまたクラス会にお招きいただきありがとうございます。 お招きいただいた日から皆さんの名簿を出しひとりひとりの顔を思い浮かべ、お元気なお姿を拝見できます日を指折りかぞえて楽しんでおります。 さて、市之原の様な自然に恵まれた山村にもゴルフ場が出来、トヨタ工場のための工事が進み緑の 山々がすっかり赤土と化してしまいました。市之原分校で皆さんと生活を共にした者の一人として、この変貌する山々を見る度に何とも言えない寂しさを感じますが皆さんは如何お思いでしょうか!一度皆さんとお話がしたいと思っている時、クラス会のお知らせを頂きましたので、この場をお借りして私の考えていることをお聞きいただきたいと思います。 私が市之原で生活した頃を振り返って見ますとき皆さんのご両親そして、おじいさん・おばあさん方は真面目で働き者で人情味豊かなこの市之原部落を創り上げてこられました。 また農業にかけての御苦労は言うまでもなく、溜め池や用水路などの困難に打ち勝ってこられました。当時の地域の方々の努力や御苦労がひしひしと身に伝わってくるのです。 血の滲むような努力を重ね年々工夫改善されて後世へと伝え残された仕事のどれ一つをとってみても先人が農業に託された祈願の心がこめられていると思うのです。この様な先人の努力の数々を地域の活性化の陰におろそかにしてはならないと私は思うのです。昔ながらの美しい自然と美しい人情と、そして先人の御努力のあとを、どんなに活性化が進められても失うことなく子や孫へと永遠に継承していただきたいと念願するのです。 そのためには、今お集まりの皆さんが市之原の中堅として、呼びかけて頂いたらと思うのですが如何でしょうか!皆さんも既に色々とお考えかと思いますが、私の考えていることを少し書かさせていただきます。少しでも参考にしていただければと思います。 ー昔からの市之原を守っていくためにー (一)みんなで考える会を月一回ぐらい持って話し合う。 時には講師さんを招いて話し合いに入っていただく、 話し合うこと 1)皆さんが子供の頃の家での生活、農業のやりかたなど 2)先人が作られた溜め池や水路のことなど、 3)農業に使われた道具と人々とのかかわり、例:みの・ かさ・ せた・ からすき・ 大 八車など、 4)裏山での薪作りと人々の暮らし、 5)1〜4の上に立ってこれからの市之原をどのようにしていくのか、 6)トヨタ工場完成について 良い面、困る面? どのように、かみ合わせていくか、 (二)市之原の生活の歴史を記録に残す、 1)(一)で話し合われたことは全て記録に残し子孫に伝える、 2) 市之原の誰でも思い出すことを記録に残していただく、 集録して一冊の本として残す、 以上、つたない私の考えを書きました。私が昭和五〇年に再び分校に来たとき、奥岡源五郎さんに 市之原部落の成り立ちを話していただき大変に参考になりました。何かの形で残していくことも大切ではないかと考えます。 平成4年11月8日 奥岡 まさ子 (平成4年11月に昭和23・24・25年分校入学生同窓会にあたり、「分校の想い出」文集に寄稿していただいたものを原文のまま掲載させていただきました。) |
〜市之原分校の思い出〜 城野正昭 私は、昭和十五年に市之原に生まれ、小学四年生までは、市之原分校へ、小学五,六年生は本校に通学しました。当時市之原の同級生は十七名(男子十二名女子五名)で、当時としては 多い方だったと思います。 終戦の混乱期に小学校へ入学し、物のない時期に小学校生活を過ごしたものでした。 本校の校舎も木造で、寒い中で勉強したのを思い出します。 よく遊び、よく家事(農業)の手伝いをしたことを思い出します。遊びでは、上級生、下級生がいっしょに、夏は川や池での魚とり、水泳、冬は手作りのスキーそり遊び等々、数え切れな いほどの遊びをしてきました。 今思いますと、全ての遊び、道具は親や上級生に教えてもらったり、自分達で創意工夫して遊び道具を考え作ったものです。中でも、釘一本で「陣取り遊び」を半日以上もかけて遊んだものです。 この遊びは、十二センチ〜十三センチメートルの釘を地面に打ち付け、相手の行く道を遮り、陣地をとる遊びで、今の児童には考えられないような遊びを長時間したものです。 夏休みや冬休みの宿題は、友達と一緒に教えたり、教えられたりして勉強したのを思い出します。 今と比べれば、地域環境や家こども達庭環境は大きな違いがあり、子どもたちの行動も様変わりしています。 だが、子どもたちの心は、今も昔も変わりはないと信じている昨今です。人に対する思いやり、人との協調性など、人としての基本的なことを遊びや勉強することで養ってもらいたいと思います。私は、今でも小学校、中学校時代の友人との交流があり、親しく歓談することがあります。 親には相談できないことも友人には相談できる場合があり、友人との親交は心強く思います。 あと三年たつと、二十一世紀に入ります。 新時代に向かって社会環境も変わってくるでしょうし、今、小学生の児童は、この時代に活躍してくれる年代です。 今からしっかり勉強されて、二十一世紀の夢ある社会に貢献できる人間に育ってくれることを希望します。 最後に、私の今までの人生観で思いついたことを述べますと @ 人には思いやりを持って接する。 A 何事も一生懸命に取り組む。 B 社会に対する貢献心(奉仕の心)をもつ。 C 人間関係は広く長く大事にする。 D 親に感謝の気持ちを」忘れない。 以上が私の経験から感ずることで、みなさんもこれからいろい ろな場面に遭遇しつつ、成長して行くわけですから、参考になればと思い書きました。 よりよい夢ある人生目指してがんばっていただきたいと思います。 ( 二十七年度卒) (平成9年11月 西小学校設立50周年記念の文集より、原文のまま記載) |
〜50年も前の遠い記憶を新たに〜 西小学校市之原分校の想いで 奥岡 洋志 昭和16年4月まれ、今年、56歳になる私にとって西小学校の想いでは随分昔の出来事になってしまいました。 太平洋戦争勃発の年にこの世に生を受け、戦中・戦後の混乱期に幼少年期を過ごした私たちは、敗戦の深い傷あとと、復興に向けての様々な苦難の時期の小学校時代でした。戦後間もない昭和23年4月市之原分校入学(私は24年4月転入)。4年生迄分校、5・6年生は本校への通学でした。政治・経済社会状況全てが不安定で、食べる物、着る物、また、住ま いの様子も今思うと大変貧しく、質素でした。 特に私の家は終戦で田舎へ帰り、小さな農業で大家族の生計をたてねばならず、父母の苦労は大変なものだったと思う。 当時は、労働条件が悪く、現金収入の途をもとめて、どこの家でも農閉期には、男も女も日雇い人夫として、砂防工事で働いたり、あちこちに出稼ぎ仕事をみつけ、生活の糧を求めた時代でした。 もちろん私たち子供たちも小遣い銭稼ぎに冬場の割り木、しばづくりに精をだしたものでした。小学校の2,3年になれば、家の中での自分の役割が決められ、自分の仕事・役目を しっかり果たす事が重視されたように思います。 当然の如く、田植え時期、秋の収穫時には十日以上の農繁期休暇もあり、家族の中での働き手の一員としての存在感をみなが持っていた。 当時の親たちも、「家の手伝いがしっかりできること」が評価基準で、大きな比重を占めて いた。高校への進学率も当時は20〜30パーセント程度ではなかったろうか。 分校での学習・勉強では、一.二年生、三.四年生と三十名前後の複式学級二クラス、分校全体で五十名〜六十名の時代が相当続いたと思います。 昭和二十五年度当時七十名の人数を、今も元気な水貝悟先生、奥岡まさ子先生の二人の先生だけで面倒をみて頂いた時期がありました。 当時の個性丸出し、いたずら大好き、勉強嫌いの面々、しかも二クラス編成の複式での勉強 であり、二人の先生には、本当に苦労をかけました。 当時のことが、今はなお印象深く折りにふれなつかしく思い出されます。 当時のメンバーの強い要望で、平成四年十一月には、先生も加わっていただき、伊豆方面への一泊旅行を催すことができました。勉強の中身より先生とのふれあい、仲間関係、群遊び、手伝いなど恵まれた自然と人間関係の中で、「生きる智恵」を各人が、しっかり身につけることができた様に思います。 五・六年生の本校時代にも様々な仲間との出会いがあり、多湖和男先生や渡部ちづ先生にも多くのことを学んだ事が懐かしく想い出されます。 西小学校が、五十周年を契機に新しい世紀にむかってますます発展しますようお祈りします。( 二十八年度卒) (平成9年11月 西小学校設立50周年記念の文集より、原文のまま記載) |
〜木のぬくもり市之原分校〜 奥岡 智恵美 タイムスリップして昭和初期に戻ったかの様な木造校舎。 ゆったりとあたたかく私達を迎え入れてくれる市之原がそこにあります。 三十年前、小学校入学式。紺色のスカートに白いタイツ姿の私は、真っ赤な頬でおかっぱ頭。うれしくて、はしゃぎ回っていました。いつも仕事で忙しくしている母が私の為に休んで来てくれているうれしさと、初めてプリーツスカートをはかせてもらった喜びとで、とびはねていまいた。 当時、市之原分校は複式学級で、一・二年生を伊藤たまゑ先生、三・四年生を水貝悟先生が教えて下さり、二人ともとても優しく、よくしていただいたことを覚えています。市之原分校は校舎のすみずみまで『木』です。廊下・床・壁はもちろん、窓・机・椅子・・・すべてが『木』で、とてもあたたか味のあるものです。小学三年生の時に現在の位置へ移転され、東小学校の古くなった校舎をそのままゆずり受けたのですが、私たちにとってとてもうれしい校舎でした。分校には、昭和三十五年に西小学校からゆずり受けたピアノが今もあるのですが、実に悠然とそこにあります。市之原分校の歴史を、その銀盤に刻み続けていてくれます。 分校で勉強したという思い出はなく(私だけがしなかったのでしょうか)、ひたすら四学年の縦集団で朝から夕方まで遊び回っていた楽しい思いでばかりです。かくれんぼ・ポコペン・ケンパ遊び・ゴムとびなど今もはっきりと覚えています。家でも「勉強しなさい。」言われたことはなく、山仕事や農作業の手伝いを毎日していましたし、近所の十数人の子ども達と暗くなるまで遊んでいました。 今のように給食はなく、寒い冬、お母さん方が交代でみそ汁などを作りに来ていてくれたことが、とてもあたたかい思い出です。また、プールもその当時はなく、近くの川で大自然と戯れて夏を楽しんだ思い出があります。小さな川魚を追いかけ、さわガニを石の下から見つけ出したり、石を積み上げて水をせき止めたり、自然からたくさんのことを教えてもらいました。 今は、整えられた環境の中で規制に押しつぶされそうな子ども達ですが、本当にこの子達は幸せなのかなあと自分の豊かだった分校時代と重ね合わせて思います。分校時代の木のぬくもりとあたたかさを、このままずーっと一人でも多くの子ども達に味わってもらいたいと思っています。今の私のようにかけがえのない素敵な思い出としてもらいたいのです。 最後になりましたが、木村校長先生はじめ伊藤PTA会長様、設立五十周年記念行事実行委員会の皆様方、西小学校の先生方ご尽力くださり、ありがとうございます。ここに厚く御礼申し上げます。( 四十六年度卒) (平成9年11月 西小学校設立50周年記念の文集より、原文のまま記載) |
〜複式授業〜 城野初美 西小学校設立五十周年おめでとうございます。 西小学校を卒業してからもう二十年余りが過ぎましたが、市之原に生まれ育った私にとって西小学校に於ける思い出と言えばやはり市之原分校での四年間が思い出されます。 私が小学校へ入学した昭和四十三年当時分校の校舎は現在の場所より下の今の公民館の敷地にありました。 その校舎へしばらく通った後、確か一年生の三学期頃だったと記憶しておりますが、現在の場所に移転することになり、小さな体で自分の机と椅子をもって、一生懸命坂道を登り教室まで運んだことを今でも覚えております。 当時担任を持って頂いたのは伊藤たまゑ先生、水貝悟先生で、本当にお世話になりました。 一二年生で一クラス、三四年生で一クラスの複式授業でしたが、のんびりとした雰囲気の中で毎日の学校が本当に楽しかった様に思います。 又体育の時間と言えば何故かソフトボールの記憶があります。 今は体育にソフトボールをすることはほとんんどないかと思いますが。 又、当時と比べると近くに大きな工場が出来たりあるいはゴルフ場が出来たり又児童の数も年々少なくなってきていますが、変わらぬ木造校舎と共に恵まれた自然はいつまでも残って欲しいものだと思います。 五年生になって通った本校は片道四キロ余りの道のりで夏の暑い日、冬の雪の日などは本当に大変でしたが友達と楽しく話をしながら一時間程かけて通ったことが思い出されます。 その時担任を持って頂いた三羽光次先生に先日偶然にも二十年ぶりにお会いすることができました。 当時と全くと言っていい程お変わりなくほんのわずかな時間でしたがお話する時間が持て懐かしさとともによく覚えていて下さったことを嬉しく思いました。 又、当時もう一クラスの担任をしてみえたのが今の分校の教頭先生でいらっしゃる水谷加寿子先生です。 縁あって我娘たちも西小学校でお世話になり現在長女は本校へ二女は分校へ通っておりますが、授業参観等で学校へおじゃまする 度に懐かしく思っております。 最後になりましたが、卒業生の一人として西小学校の今後益々のご発展をお祈り申し上げます。( 昭和四十八年度卒) (平成9年11月 西小学校設立50周年記念の文集より、原文のまま記載) |
〜市之原分校〜 奥岡英和 今、私は成人の仲間入りになろうとうとしています。 そんな私にとって小学校とはかなり昔のことのように思えます。「小学校の思い出」ってなにがあるだろう?自分にそう問い掛けたとき、皆は小学校の最大のイベントとも言える「入学式」「修学旅行」 「卒業式」などが挙げられるかもしれません。 入学式はビシッときめた服に半ズボンでハイソックスをはき、体育館の舞台に立ち、大変緊張した覚えがあります。修学旅行は旅館で友達と遊んだことが大変おもしろかったです。 卒業式では泣いたか泣かなかったかどうかは今となっては忘れましたが、これから自分はどんな中学校生活を送るのだろうか?と思ったことを覚えています。それよりも市之原で過ごした分校での思い出 の方が心に残っています。 山菜っておいしいのかなあ?と思いながらの山菜採り今度は長い長い山芋が採れるかなあと思った山芋堀、あさりをたくさん取れるといいなあと思った潮干狩り、次はどんな出し物をするか悩んだ誕生会、優勝するぞ!と息込んだロードレース、何故こんなに疲れてめんどくさいことをするのだろうと思った 田んぼ仕事・畑仕事などたくさんの思い出があります。 そのときは当然のようにやってきたことが、今こうして振り返りますと、楽しかったこと・苦しかったことすべてを含めてよかったと思います。 その当時は家は何故こんなにも田舎なんだろう?って疑問を抱いたこともありましたが、こんな自然に恵まれた環境の中で、小学校生活の四年間を過ごすことができたことを誇りに思っています。 だからこそ今の自分があるように思えます。 以前、分校を廃校にするかどうかという問題が上がりました。難しい問題を抱えているとは思いますが、私はこんなにすばらしい分校を、これからもずっと続けてほしいです。 ( 平成元年度卒) 平成九年 西小学校設立五〇周年記念の文集より原文のまま記載。 |
「想い出をありがとう!!」 奥岡 巌 明治18年に設立された分校(4年生までの複式2学級・近年は普通学級)が、少子化となり子供の 教育を第一に考えた末の保護者関係者の苦渋苦痛の決断で、休校との形で平成12年3月に閉校になりました。 市之原に生まれ育んだ者に小学校の想い出を語れと言われれば、全ての者が分校で過ごした4年間の出来事が先ず、蘇るのではないでしょうか! 私もその中の一人です。私は昭和25年に入学しました。当時は戦後の貧しい時代で全校生徒で近くの山で薪拾いをしてその薪で4年生の女子が先生が登校されるまでに、かまどで湯を沸かして湯茶の準備をしておりました。 子守をしながら授業を受ける子や、板張りで隙間だらけの節穴のある教室の床下に転げ落ちた大事な消しゴムを拾いに入り、頭を釘で切り裂いた子、今でもその傷跡が分校の懐かしい想い出と共に残っているようです。私は、分校で勉強をした記憶はほとんどありません。 遊んだことばかりです・・・いや、そのころの子供は家で毎日の決められた仕事もしておりました。又、仕事半分遊び半分の茶の実拾い・竹の皮拾い・魚取り・タニシ取りなど限りなく思い出されます。 優しかったまさ子先生や、本校から交代で宿直に来られていた多湖和男先生には、星座を教えて頂いたり戦時中の体験談などを聞いて、寝冷えしないように座布団をお腹に巻き、友達・先生と、ごろ寝して眠りについたことなど、この間のことのように思い出されます。 私たちの子供の頃の市之原と現在の市之原は、随分と変わってしまいました。昨今の市之原の変貌ぶりは、如何に経済の発展の為とは言え心寂しいものがあります。故郷市之原を遠く離れている皆さんにとっては、より一層にその念が強く感じられるのではと思います。物質面の豊かさとひきかえに尊いかけがえのないものが失われていくような気 がしてなりません。昔からの言葉に「変わらぬものは、故郷の鎮守の森と山や川」と言われていますが、お宮さんも移転し夏には魚とりや裸で泳いだ川も、今はコンクリートで固められ、夕闇に蛍を追いタニシ・わらび・自然薯芋を掘った田圃や山野もゴルフ場や大企業の進出で一変してしまいました。 大きなブルドーザーが唸りをたて山を崩したあの時、心が寒々としたあの日を私は決して忘れないことでしょう。 そこに住んでいた小さな動物たちは、どうしたのでしょうか! この地球は、人間だけのものなのでしょうか! 文明とか文化とかは、貴い自然の破壊から生まれるものなのでしょうか! 奥岡 智恵美さんの「木のぬくもり・市之原分校」にも今の子供達は、本当に幸せなのかなぁ・・とありますが、私も同じ思いがします。これからの子供達は、私たちが味わったような想い出はもう持てないことでしょう。可哀想な気がします。余計なお世話・心配でしょうか?少々しめっぽくなりました・・・ごめんなさい!(30年度卒) ふるさとの山にむかひて いふことなしふるさとの山は ありがたきかな 石川啄木 (平成12年9月 ページ管理者・奥岡 巌) |
22年度のおもなできごと お世話になった先生方 城野かずえ 中村きくえ 1年19名 2年7名 3年22名 4年13名 合計61名 4月 1日 学校教育法施行により、笠田小学校と改称 4日 入学式・始業式 10日 市之原にて農村慰安演芸会あり 26日 春の遠足 6月 2日 午後6時すぎ、山間部降雹(ひょう) 9日 分校保護者会 本校より全職員参加 6月19日〜25日 農繁期休業(前期) 1・2年は授業あり 6月28日〜7月4日 農繁期休業(後期) 1・2年は授業あり 7月 7日 学校長午前中市之原分教場巡視 19日 第一学期終業式 9月 1日 第2学期始業式 4日〜5日 夏休み作品展覧会 10月 3日 運動会予行演習 12日 運動会 奨善・梅戸井・三里・阿下喜・西藤原小見学 13日 運動会代休 梅戸井・三里両小学校に選手派遣 14日 1・2年生 奨善小学校運動会見学 10月〜 職員便所・井戸小屋新設 11月 5日 秋の遠足 1・2年生は員弁大池へ 23日 学校創立記念日 1月 1日 新年祝賀式 8日 第3学期始業式 23日 運動場拡張 庭園作り始まる PTA・青年団が奉仕 2月11日 紀元節祝賀式 3月 3日 学芸会 南校舎玄関より3教室使用 |
23年度おもなできごと お世話になった先生方 奥岡 まさ子 加藤まさえ 1年17名 2年19名 3年7名 4年17名 合計60名 4月 5日 笠田小学校・員弁中学校笠田分教場入学式始業式 5月12日 春期臨時運動会 28日 員弁中学校笠田分教場生徒・笠田小学校児童決別式 笠田小学校廃校式 31日 県軍政部指令により、笠田小学校廃校 6月 1日 員弁町立西小学校設立 開校記念式 紅白饅頭 11日〜17日 農繁期休業(前期) 23日〜30日 農繁期期休業(後期) 7月11日〜8月20日 夏休み 10月13日 秋期運動会 11月 2日 遠足 1〜2年麻生田野 8日〜13日 農繁期休業 12月10日 茶の実売却 すり切り1升23円 2月23日 学芸会 3月 9日 新入児及び保護者の会 3月23日 卒業式並びに終業式 |
24年度のおもなできごと お世話になった先生方 奥岡 まさ子 加藤まさえ 1年15名 2年17名 3年19名 4年7名 合計58名 4月 5日 本校にて入学式 分校生15名奥岡洋志転入 6日 分教場1年入学式 付添人なし 7日 役員任命 8日 第4限2年以上薪拾い 9日 第3限合同体操 最初の合同体操にて皆喜んでいる 14日 まさ子先生欠勤のため、本校より幸夫先生に来ていただく 16日 第4限全校運動会 クレヨン1年生に配布 ノート2冊づつ配給 1冊7円50銭 22日 春期遠足 美鹿→平古山(19日が延期) 23日 1限綴り方(遠足)3/4限写生会(校庭の桜) 26日 身体検査のため午後全校生徒本校へ 5月10日 操行善良者表彰 健康優良者表彰 母への感謝文発表 13日 1年H君、2年T君とけんかをして注意する 25日 全校生徒写真撮影のため校長先生来校 26日・27日 海人草服用 服用者43名 27日 2年T君・H君放課後キャンディー勝手に買う 28日 全校運動会 6月 9日 3年T君足の裏に釘をささらかして消毒する 14日 1年H君の黒ゴム靴紛失する 15日〜18日 農繁期休業(前期) 17日 雨天のため出校。しかし欠席者多数 21日 暴風のため第4限後直ちに児童を帰す 24日 本校よりDDTをいただく 7月1日に散布予定 27日〜29日 農繁期休業(後期) 30日 ゴム草履注文調査(大125円 小95円) 7月 5日 竹の皮拾いについての注意をうながす、竹に着いているものを無理に取らぬように 7日 七夕祭り 9日 夏休みの友代(25円)通知簿代(2円50銭)を集金 20日 第1学期終業式 7月〜 本校自転車置き場・北校舎西昇降口取り付け 8月22日 第2学期始業式 A子、父親チフスのため出停 25日 夏休み作品展覧会 27日 1年H君学校の井戸に落ちる 31日 競書会 9月 1日 役員任命 2日 大雨被害見学中、先生の注意を守らず遠くへ行ってしまったので懲戒 男子11名 廊下のガラス破損する1年H男 3日 作文「大雨の被害」発表会 8日 学校の前紙くずで汚いので2年男子に掃除を頼む 26日 服装検査 首筋に垢のあるもの多し 9月〜11月 はしかが流行し、3日〜10日以上のの欠席者有り 9月29日 朝8時半より本校へ、東の道より警察・郵便局・駅・踏切・遮断機等の見学 10時より運動会の練習。午後チフス注射 女子ダンス練習 10月13日 秋期運動会 28日 写生大会作品順位 11月 1日 音楽会出演者 放課後音楽練習 5日 1限そら豆蒔き 7日 遠足 阿下喜町内見学 鎌田橋で昼食 8日 東小学校より男子1名転入 10日〜14日 農繁期休業 13日 日曜日であったが雨天のため出校 26日 3限薪拾い 3年男子特に多く拾う 29日 話し方大会のため早食を済ませ本校へ 3名 12月 3日 大豆調整 5升5合収穫 8日 初雪 児童の清掃作業も湯で行わせたいと思った 9日〜10日 海人草服用 43名 23日 第2学期終業式 1月10日 第3学期始業式 13日 ズック配給 18足来る 大根、薪を集める 17日 3年H男掃除態度悪し、強く訓戒する 18日 3年昼食後に廊下で遊ぶ態度悪し 20日 みそ汁給与 28日 加藤先生ご出産のため産後の休養 2月 3日 3年の男4人は4年のT子を待ち伏せて小刀で突く真似をする。 学校へ呼び戻し強く訓戒する。 13日 3年男子野球熱旺盛 4年女子障子張り 3月 1日 学芸会児童参観日 2日 学芸会 遊戯「叔母ちゃま」「お花のホテル」「ふりそで人形」 3日 ピアノ披露会 「雪だるま」 7日 4限山遊び 10日 分校のみ理科授業を兼ねた小遠足 古野へ 11日 加藤先生今日からご出勤 13日 全校生徒で、運動場の石拾い 14日〜15日 海人草服用 服用者43名 16日 海人草服用成績 369人中171人で377匹排泄する。 22日 午後卒業式 23日 終業式 |
昭和25年度の主なできごと :お世話になった先生方・奥岡 まさ子・加藤まさえ・水貝悟
生徒数・1年20名 2年15名 3年17名 4年19名 計71名 |
26年のおもなできごと お世話になった先生方 奥岡まさ子 加藤まさえ 水貝悟 1年10名 2年20名 3年15名 4年17名 合計62名 4月 1日 校舎増築落成式 4日 入学式 始業式 分校1年10名入学 6日 緑化運動 緑の羽売りつけ 10日 2年以上薪拾い 2年男子掃除区域についてよく口喧嘩をする 13日 「森永母を讃える会」へ作品を送る 19日 海人草代一人15円集金 廊かでボール投げをして障子の桟を折る 20日 2年S男K男始業になっても登校せず途中で遊び遅れる 23日 国語 話し方 唱歌の発表会(第3限) 分校町議選の投票所となる 30日 2・3年 柳谷の方へ小遠足 海人草服用(翌日も) 5月 6日 サマータイム実施 8日 午後PTA総会 授業参観 総会 教育講話 9日 母への感謝の意味で、毎日1つずつ母の手伝いをするようにすすめる 10日 全校平古協和池付近へ親子遠足 福引きあり 2時半自由解散 11日 新ラジオ体操講習会 益生小 奥岡敏子先生 農協総会 総会会場の整理 15日 服装検査 2年生合格者16名で第一位 17日 今日から1年生がうさぎを世話をする(梅戸井小より) 18日 運動場 牛の爪切りに貸す 21日 校長分校へ 新入児童撮影 集会での注意 麦の穂をぬかぬこと 苗代の田へ入らぬこと 22日 5.6年生 愛知県犬山町へ修学旅行 23日 服装検査不合格者に便所掃除をさせたが、恥ずかしがらず効果なし 6月 1日 学校創立記念日のため休業日 2日 本校へ映画「面影三四郎」を見に行く 身体検査もあり、7時に帰る 9日〜16日 農繁期休業(麦刈り) 11日 2年S男西宮から明智川で働いている人に石を投げる 18日 本日より釜でお茶を沸かし、水を飲まぬようにする 22日 皇太后大葬儀 ラジオ放送聴き黙祷する 23日〜28日 農繁期休業(田植え) 7月 4日・5日・6日 海人草服用 5日 菊・柳・ぐみ・サツマイモ・サツキ・バラの挿し木 6日 1限終了後本校へ教育映画「長崎の鐘」を見に行く 映画代16円 7日 全校で七夕祭りと七夕のお話 後始末悪く注意 12日 夏休みの友代 一人30円集める 16日 通信簿用紙代 一人2円集金する 20日 終業式 明日から26日まで夏休み 8月28日 教科書代 2年算数下59円 理科下59円徴収 30日 員中にてツベルクリン注射 9月 8日 映画会「谷間の少女」ほか 本校にて 10日 サマータイム解除 13日 便所新築地鎮祭 15日 全校児童に中秋の名月について説明 21日 2.3年西の谷・おさき谷へ自然観察 27日 弁天祭(雨天で延びていた)で午前中のみ授業 10月 5日 西便所本日建つ 人夫慰労会 6日 運動会予行演習のため本校へ 10日 分校全員運動会の練習に本校へ 全校遊戯用旗作り 校舎増築工事始まる 13日 秋季運動会 薄曇りで運動会日より、欠席者なし 16日 2限後 員中運動会の見学 正午より自由 23日 遠足 1.2年梅戸井方面 3.4年治田方面へ 分校は雨天のため 小野田を変更し中津原を回って12時半に帰校、出発までに おやつを食べたり喧嘩したりで注意 24日 南教室の壁をとるため2.3年は4年教室へ4年は神社社務所へ 27日 新教室上棟式 29日 甘藷堀休業日 11月 1日 本校において第2部連合運動会 8日〜15日 農繁期休業(稲刈り) 20日 年賀はがき200枚 児童を通して売るように依頼 天皇陛下奉迎のため桑名市へ6年引率 30日 映画「トンボ返り道中」を見る 12月 4日 新校舎掃除 本日より4年生も学校にて勉強 11日 午後1時半より映画会 本校へ 13日 郡連合音楽会(本校会場)のため本校へ 24日 第2学期終業式 1月 1日 新年祝賀式 6日 建築工事竣工検分 8日 始業式 校舎竣工式 23日 みそ汁希望調べ 教科書販売(石井書店) 24日 みそ汁 本日より希望者に給与 午後映画会 2月 5日 分校校舎落成式 午後落成祝いの浪曲と漫才 13日 夜 組合映画「角兵衛獅子」7時〜10時 14日 分校学芸会 午後1時40分〜4時 本校より拡声器借りる 21日〜22日 本校学芸会 23日 自動車(トラック)に載せてくれとねだって乗った者多数あり 注意する 28日 山郷小学校音楽会 3・5・6年出場 3月 1日 東小児童 音楽練習のため来校 6日 野球は、庭球ボールを使うこと ホームは便所の方にすること 11日 保護者会 22日 第4回卒業式 24日 終業式 8時集合本校へ |
27年のおもなできごと お世話になった先生方 奥岡まさ子 辻治郎 渡辺たけ 1年10名 2年10名 3年20名 4年15名 合計55名 4月 4日 入学式 始業式 5月 2日 親子遠足 (10時出発員弁大池) 3日 郡内写生大会 於 麻生田天王橋) 31日 1・2限の後小運動会 6月23日〜28日 農繁期休業 7月 2日 映画会 (員弁中へ4年以上) 9日 稲の苗持参 10日 小学芸会 19日 第一学期終業式 9月30日 映画会 午後本校へ 11月10日 皇太子殿下立太子式 運動場にて遙拝 11月11日〜15日 農繁期休業 27日 映画会 午後本校へ 12月 5日 郡連合音楽会 1月 1日 新年祝賀式 8日 第2学期始業式 21日 学芸会 3月 7日 市之原部落会 |
昭和28年度の主なできごと お世話になった先生方・奥岡 まさ子・辻治郎・渡辺たけ 1年22名 2年9名 3年10名 4年 20名 合計61名 4月 4日 入学式・始業式 7日 分校学級委員任命 13日 分校1年・全校記念撮影 28日 映画会 2.3.4年本校へ 5月 2日 親子職員合同遠足 員弁大池へ 11日 分校小遠足 20日〜21日 海人草服用 25日 種痘接種のため本校へ 28日 写生会 平坂より村を見る 30日 競書会 6月 3日 写生会・競書会入選者に鉛筆一本ずつ与える 8日 朝会 今週の生活目標 「生水を飲まぬこと」 「他所の畑へ入ったりタケノコを折らぬように」 9日 麦刈りの手伝いのため、3限で授業を終わる 13日 映画会 「原爆の子」分校3・4年本校へ 防犯ポスター標語 上笠田駐在所へ出品 出品した児童に鉛筆一本与える 15日 名張中学校落成記念展覧会入選者に賞状授与 20日 本校にて小運動会 22日 部落別子供会 23日〜27日 農繁期休業 29日 授業開始午前8時に、柴または薪1把を持参するよう依頼 30日 ツ反応陰性者BCG注射のため本校へ 7月 9日 分校4年 水貝先生の授業研究会 13日 九州水害見舞金 428円(4年124円)本校へとどける 夜、市之原児童30名に天体観測指導(多湖和男先生) 16日 履き物を隠すものがあるので注意を促す 20日 第一学期終業式 8月 1日・21日・26日分校召集日 9月14日〜15日 6年修学旅行・宇治山田・二見・鳥羽方面 25日 台風13号近畿上陸のため児童帰宅 26日 本校にて分校児童歯牙検診 10月 6日 運動会予行演習並びに反省会 12日 祭りのため、授業2時限で放課 13日 秋季大運動会 14日 員弁中学校運動会児童自由参観 16日 第2部連合運動会 於:笠間小へ分校4年6時半出発 20日 分校写生会 24日 七取小学校水害見舞金3,000円(分校331円50銭) 29日 郡写生大会(大社橋付近)分校4年3名 辻先生引率 11月 4日 分校4年 桜の番所へ 7時半出発 6日〜12日 農繁期休業 14日 CBC子供音楽会本校で 郡写生大会入選者4年W君へ鉛筆2本 24日 すずみに乗りかかって壊さぬように。特に板東児 25日 映画「村八分」を見に8時に出発して本校へ 12月 1日 茶の実集荷(桶長)6年S子・9升(108円) 4年T子10.7升(128,4円)R子4升(48円) M子1,7升(20,4円)Y男4,7升(56,4円) M男9,7升(116,4円)分校合計7斗8升1合(937円20銭) 15日 奥岡敏子先生結婚式 味噌汁給食開始 21日 青い鳥募金 分校99円(4年54円) 22日 駆虫薬(マクニンS)服用 4年2錠(20円) 23日 第2学期終業式 新年の式の歌練習 1月 1日 新年祝賀式 午前9時30分より 18日 味噌汁給食開始 味噌汁当番2名母親来校 23日 映画「子鹿物語」8時出発本校へ 昼食後帰校 25日 ゴム管にて、ガラス2枚破損 4年(Y男S男) 2月 4日 市之原PTAより、大鍋一個(尺八はそり)寄贈 12日 学芸会予行演習 4年と2.3年の教室を片づけ演壇4つ合わせ舞台とする 18日 分校学芸会(12時半〜4時)神明社より舞台借用 25日 豊浜中学校火災見舞い金 分校(104円) 3月 6日 映画会 9時分校出発 午前中児童 午後婦人会 11日 多度神社書き初め賞状授与 22日 味噌汁給食最終日 代金2〜4年(34日)76円集める 23日 分校4年生を送る会 作文発表 歌 茶話会 28日 青年会主催映画会「馬喰一代記」 |
昭和29年度の主なできごと お世話になった先生方 奥岡 まさ子・小林たけお・渡辺たけ 1年7名 2年22名 3年8名 4年10名 合計47名 4月 5日 入学式 始業式 28日 親子遠足 員弁大池にて宝探し他 5月27日 小運動会 6月3日〜4日 6年修学旅行 伊勢志摩方面 21日〜25日 農繁期休業 7月24日〜8月2日 屋根葺き替え 28日 6B(担任 奥岡幸夫)分校にて学級召集 この日の分校日直奥岡まさ子先生 8月 2日 5A(担任辻治朗ー前年分校勤務)分校にて学級召集 13日 部落別召集日 14日 奥岡省吾の父葬儀 21日 第2学期始業式 9月13日 台風のため3限で放課 14日 12号台風のため臨時休業 18日 14号台風のため臨時休業 10月 1日 午後映画観覧 石仏座 4年以上希望者 分校炊事場完成 奥岡氏二宮金次郎像寄贈披露祭で2限で放課 13日 秋季大運動会 20日 第2部連合運動会 於 三里小 30日 市之原簡易水道落成式 11月8日〜12日 農繁期休業 28日 桑員連合音楽会 於 在良小 29日 郡競書会 12月24日 第2学期終業式 1月 1日 新年祝賀会 11日 図画の書き始め 2月 9日 校内話し方大会 14日 分校学芸会 19日(土)〜20日(日)本校学芸会 21日 振り替え休日 28日 郡珠算競技会 4.5.6年の6名参加 3月 8日 卒業記念写真撮影 24日 卒業式 終業式 |
校下戸数人口(25年国勢調査による) | ||||
大字名 | 戸数 | 男人口 | 女人口 | 計 |
上笠田 | 185 | 450 | 472 | 922 |
笠田新田 | 125 | 313 | 308 | 621 |
市之原 | 117 | 311 | 279 | 590 |
楚原 | 121 | 256 | 305 | 561 |
御薗 | 19 | 45 | 52 | 97 |
石仏 | 88 | 195 | 198 | 393 |
平古 | 61 | 119 | 147 | 266 |
合計 | 820 | 1973 | 2029 | 4009 |
員弁町合計 | 1525 | ー | ー | 7588 |
☆ 市之原の戸数が現在より約20戸ほど多いのは、戦争で疎開されていたのと亜炭の採掘場がありその職務の関係者が住まいされていたものです。 |
保護者の職業(延べ数) | |||||||
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農業 | 林業 | 水産業 | 鉱山業 | 運輸通信業 | 自宅商 | 自宅工 | 行商露天商 |
286 | 0 | 0 | 0 | 2 | 58 | 19 | 0 |
自由労務 | 工員 | 公務員 | 学校職員 | 会社員 | その他 | 無職 | 合計 |
17 | 13 | 32 | 16 | 21 | 21 | 2 | 487 |
昭和25年度当町初予算/歳出(単位:円) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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